磯田道史さんの「日本人の叡智 (新潮新書)」(2011/4)を読んで、山岡鉄舟の生き様に感動して、色々と調べてみた。さらに好きになった。
■
山岡鉄舟(1836-1888)は、、幕末の幕臣、明治時代の政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。
鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎。
一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり(他の二舟は高橋泥舟と勝海舟)。栄典は従三位勲二等子爵。
江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に異常なほどの才能を示す。
浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客。明治維新後、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。
幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。
江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。
明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。
身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。
9歳より久須美閑適斎より神陰流(直心影流)剣術を学ぶ。
弘化2年(1845年)、飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごす。
弘法大師流入木道51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。
山岡鉄舟
「字体は俗臭を脱し、筆勢に作為がない。まことに雲煙竜飛と形容したいようなもの、なんともいえない味があり、ただ敬服のほかはなかった。近寄って拝見すると、それはまさしく弘法大師の筆であった。」
また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。
安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。また同時期、山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。
安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。
文久2年(1862年)、江戸幕府により新徴組が結成され取締役となる。
文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。
この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。この頃から剣への求道が一段と厳しくなる。
禅にも参じて剣禅一如の追求を始めるようになる。
元来仏法嫌いであったらしいが、高橋泥舟の勧めもあり、自分でも感ずるところがあり始めたという。禅は芝村の名刹である長徳寺の住職である順翁について学んだ。
慶応4年(1868年)、精鋭隊歩兵頭格となる。
江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。
2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。
海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。
そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。
このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。
また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。
明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。
明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。
西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。
侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られている。
宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
明治15年(1882年)、西郷との約束どおり致仕。明治20年(1887年)5月24日、功績により子爵に叙される。
明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立した。
明治18年(1885年)には、一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流を開いた。
明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53。全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。
■
晩年の山岡鉄舟 剣・禅・書の達人として知られる。
自身の道場春風館や、宮内省の道場済寧館、剣槍柔術永続社で剣術を教えた。
鉄舟を私淑する剣道家は多く、平成15年(2003年)には全日本剣道連盟の剣道殿堂に鉄舟が列されている。
禅においては、三島の竜沢寺 星定和尚のもとに3年間足繁く参禅し、箱根で大悟したという逸話が残っている。
禅道の弟子に三遊亭円朝らがいる。
また今北洪川、高橋泥舟らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設した。
両忘会はその後一時、活動停止状態となっていたが、釈宗演門下の釈宗活の宗教両忘禅教会、釈宗活門下の立田英山の人間禅教団へと受け継がれた。
書は人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される。一説には生涯に100万枚書したとも言われている。
その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。
致仕後、勲三等に叙せられたが、拒否している。
勲章を持参した井上馨に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。〔中略〕維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切った。
1869年明治天皇が京都に御行幸の際、明治天皇から手土産の相談を受ける。
そして山本海苔店二代目山本治郎に相談したことで、味付け海苔が創案される。ちなみに山本海苔店の商品のいくつかは鉄舟の揮毫である。
木村屋のあんパンを好んでおり、毎日食べていたともいわれる。また木村屋の看板も鉄舟の揮毫によるものである。
第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判で、東郷茂徳と広田弘毅のアメリカ側弁護人を務めたジョージ山岡は曾孫にあたる。
■
鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた。
しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に10万1380枚という厖大な数にのぼった(受取書が残っている)。
またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした。
鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでおいた。
そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた。
しばしばそういう場面を目撃した千葉立造が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と訊くと、
鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた。
こんな具合だったので、鉄舟はずっと貧乏であった。
■
明治期、キリスト教が日本に入ってきたとき、ある人が鉄舟を訪ねてきて、日本の坊さんと西洋人とが相撲をとっている絵をひろげて見せた。
「先生、これは仏教とキリスト教とが争っている絵です。この絵に一つ賛をお願いします」
この絵に鉄舟は下のように記した。
「負け勝ちは いずれにあるか しらねども 本来空(くう)が 勝ちとこそ知れ」
■
山岡鉄舟
「宇宙と自分は、そもそも一体であり、
当然の帰結として、人々は平等である。
天地同根、万物一体の道理を悟ることで、
生死の問題を越え、与えられた責務を果し、
正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。」
■
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
もとの姿は 変わらざりけり」
■
「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。
もって、天地と同根一体の理を果たして、
釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」
■
「どの道でも、師匠に選ぶには最善の人にするべきだ。」
■
「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。
敵と相対するとき、刀に拠ることなく、
心を以って心を打つ、これを無刀という。」
■
「金を積んでもって子孫に遺す。子孫いまだ必ずしも守らず。
書を積んでもって子孫に遺す。子孫いまだ必ずしも読まず。
陰徳を冥々の中に積むにしかず。もって子孫長久の計となす。」
■
山岡鉄舟(23歳)『修身要領』
「世事の顛倒、人事の順逆は恰も人生の陰陽あるが如し。
人の生死は昼夜の道なりと心得る可し。
然らば則ち何をか好悪し、何をか憂慮せんや。
唯だ道に従って自在あるのみ。深く鑑みざる可からず。」
■
山岡鉄舟の墓:臨済宗国泰寺派 全生庵
台東区 谷中
全生庵は山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。
尚、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。
近所なので、写経や座禅会に行ってみようと思う。
■
山岡鉄舟の画像を見ていて、
『美しき日本の面影』というHPで紹介されている江戸期の写真が素晴らしい。心を奪われた
●その1 富士山
●その2 水辺の風景
●その3 城と寺
●その4 桜
●その5 子供の情景
●その6 武士の肖像(ここに山岡鉄舟が出てくる)
●その7 幕末・明治の女性たち
●その8 働く人々
渡辺京二『逝きし世の面影』
「彼女は希にみる品格と愛嬌のある女性で、われわれが来たときは、質素な普段着で園芸の仕事をしていたが、仕事をやめてわれわれにお茶を出してくれた。
控え目でしかも親切な物腰に、われわれの一行はみな魅せられてしまった」
■
<山岡鉄舟二十訓>
一、 嘘を言うな。
二、 君の御恩を忘れるな。
三、 父母の御恩を忘れるな。
四、 師の御恩を忘れるな。
五、 人の恩を忘れるな。
六、 神仏と年長者を粗末にしてはならない。
七、 幼者を侮るな。
八、 自分の欲しないことを人に求めるな。
九、 腹を立てるのは道に合ったことではない。
十、 何事につけても人の不幸を喜んではならない。
十一、力のかぎり善くなるように努力せよ。
十二、他人のことを考えないで、自分の都合のよいことばかりしてはならない。
十三、食事のたびに農民の辛苦を思え、すべて草木土石でも粗末にしてはならない。
十四、ことさらお洒落をしたり、うわべを繕うのは、わが心に濁りあると思え。
十五、礼儀を乱してはいけない。
十六、いつ誰に対しても客人に接する心がけであれ。
十七、自分の知らないことは、誰でも師と思って教えを受けろ。
十八、学問や技芸は富や名声を得るためにするのではない。己を磨くためにあると心得よ。
十九、人にはすべて得手、不得手がある。不得手をみて一概に人を捨て、笑ってはいけない。
二十、己の善行を誇り顔に人に報せるな。我が行いはすべてが我が心に恥じぬために努力するものと思え。
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山岡鉄舟(1836-1888)は、、幕末の幕臣、明治時代の政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。
鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎。
一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり(他の二舟は高橋泥舟と勝海舟)。栄典は従三位勲二等子爵。
江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に異常なほどの才能を示す。
浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客。明治維新後、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。
幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。
江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。
明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。
身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。
9歳より久須美閑適斎より神陰流(直心影流)剣術を学ぶ。
弘化2年(1845年)、飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごす。
弘法大師流入木道51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。
山岡鉄舟
「字体は俗臭を脱し、筆勢に作為がない。まことに雲煙竜飛と形容したいようなもの、なんともいえない味があり、ただ敬服のほかはなかった。近寄って拝見すると、それはまさしく弘法大師の筆であった。」
また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。
安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。また同時期、山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。
安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。
文久2年(1862年)、江戸幕府により新徴組が結成され取締役となる。
文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。
この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。この頃から剣への求道が一段と厳しくなる。
禅にも参じて剣禅一如の追求を始めるようになる。
元来仏法嫌いであったらしいが、高橋泥舟の勧めもあり、自分でも感ずるところがあり始めたという。禅は芝村の名刹である長徳寺の住職である順翁について学んだ。
慶応4年(1868年)、精鋭隊歩兵頭格となる。
江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。
2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。
海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。
そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。
このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。
また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。
明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。
明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。
西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。
侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られている。
宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
明治15年(1882年)、西郷との約束どおり致仕。明治20年(1887年)5月24日、功績により子爵に叙される。
明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立した。
明治18年(1885年)には、一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流を開いた。
明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53。全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。
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晩年の山岡鉄舟 剣・禅・書の達人として知られる。
自身の道場春風館や、宮内省の道場済寧館、剣槍柔術永続社で剣術を教えた。
鉄舟を私淑する剣道家は多く、平成15年(2003年)には全日本剣道連盟の剣道殿堂に鉄舟が列されている。
禅においては、三島の竜沢寺 星定和尚のもとに3年間足繁く参禅し、箱根で大悟したという逸話が残っている。
禅道の弟子に三遊亭円朝らがいる。
また今北洪川、高橋泥舟らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設した。
両忘会はその後一時、活動停止状態となっていたが、釈宗演門下の釈宗活の宗教両忘禅教会、釈宗活門下の立田英山の人間禅教団へと受け継がれた。
書は人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される。一説には生涯に100万枚書したとも言われている。
その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。
致仕後、勲三等に叙せられたが、拒否している。
勲章を持参した井上馨に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。〔中略〕維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切った。
1869年明治天皇が京都に御行幸の際、明治天皇から手土産の相談を受ける。
そして山本海苔店二代目山本治郎に相談したことで、味付け海苔が創案される。ちなみに山本海苔店の商品のいくつかは鉄舟の揮毫である。
木村屋のあんパンを好んでおり、毎日食べていたともいわれる。また木村屋の看板も鉄舟の揮毫によるものである。
第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判で、東郷茂徳と広田弘毅のアメリカ側弁護人を務めたジョージ山岡は曾孫にあたる。
■
鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた。
しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に10万1380枚という厖大な数にのぼった(受取書が残っている)。
またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした。
鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでおいた。
そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた。
しばしばそういう場面を目撃した千葉立造が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と訊くと、
鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた。
こんな具合だったので、鉄舟はずっと貧乏であった。
■
明治期、キリスト教が日本に入ってきたとき、ある人が鉄舟を訪ねてきて、日本の坊さんと西洋人とが相撲をとっている絵をひろげて見せた。
「先生、これは仏教とキリスト教とが争っている絵です。この絵に一つ賛をお願いします」
この絵に鉄舟は下のように記した。
「負け勝ちは いずれにあるか しらねども 本来空(くう)が 勝ちとこそ知れ」
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山岡鉄舟
「宇宙と自分は、そもそも一体であり、
当然の帰結として、人々は平等である。
天地同根、万物一体の道理を悟ることで、
生死の問題を越え、与えられた責務を果し、
正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。」
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「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
もとの姿は 変わらざりけり」
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「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。
もって、天地と同根一体の理を果たして、
釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」
■
「どの道でも、師匠に選ぶには最善の人にするべきだ。」
■
「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。
敵と相対するとき、刀に拠ることなく、
心を以って心を打つ、これを無刀という。」
■
「金を積んでもって子孫に遺す。子孫いまだ必ずしも守らず。
書を積んでもって子孫に遺す。子孫いまだ必ずしも読まず。
陰徳を冥々の中に積むにしかず。もって子孫長久の計となす。」
■
山岡鉄舟(23歳)『修身要領』
「世事の顛倒、人事の順逆は恰も人生の陰陽あるが如し。
人の生死は昼夜の道なりと心得る可し。
然らば則ち何をか好悪し、何をか憂慮せんや。
唯だ道に従って自在あるのみ。深く鑑みざる可からず。」
■
山岡鉄舟の墓:臨済宗国泰寺派 全生庵
台東区 谷中
全生庵は山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。
尚、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。
近所なので、写経や座禅会に行ってみようと思う。
■
山岡鉄舟の画像を見ていて、
『美しき日本の面影』というHPで紹介されている江戸期の写真が素晴らしい。心を奪われた
●その1 富士山
●その2 水辺の風景
●その3 城と寺
●その4 桜
●その5 子供の情景
●その6 武士の肖像(ここに山岡鉄舟が出てくる)
●その7 幕末・明治の女性たち
●その8 働く人々
渡辺京二『逝きし世の面影』
「彼女は希にみる品格と愛嬌のある女性で、われわれが来たときは、質素な普段着で園芸の仕事をしていたが、仕事をやめてわれわれにお茶を出してくれた。
控え目でしかも親切な物腰に、われわれの一行はみな魅せられてしまった」
■
<山岡鉄舟二十訓>
一、 嘘を言うな。
二、 君の御恩を忘れるな。
三、 父母の御恩を忘れるな。
四、 師の御恩を忘れるな。
五、 人の恩を忘れるな。
六、 神仏と年長者を粗末にしてはならない。
七、 幼者を侮るな。
八、 自分の欲しないことを人に求めるな。
九、 腹を立てるのは道に合ったことではない。
十、 何事につけても人の不幸を喜んではならない。
十一、力のかぎり善くなるように努力せよ。
十二、他人のことを考えないで、自分の都合のよいことばかりしてはならない。
十三、食事のたびに農民の辛苦を思え、すべて草木土石でも粗末にしてはならない。
十四、ことさらお洒落をしたり、うわべを繕うのは、わが心に濁りあると思え。
十五、礼儀を乱してはいけない。
十六、いつ誰に対しても客人に接する心がけであれ。
十七、自分の知らないことは、誰でも師と思って教えを受けろ。
十八、学問や技芸は富や名声を得るためにするのではない。己を磨くためにあると心得よ。
十九、人にはすべて得手、不得手がある。不得手をみて一概に人を捨て、笑ってはいけない。
二十、己の善行を誇り顔に人に報せるな。我が行いはすべてが我が心に恥じぬために努力するものと思え。
無くてはならない大事な品だが、
股ぐらの間に隠れていて、
ひとの邪魔にもならず、
威張りもせず、
人間もきんたまのような人物になるまで
修養を積まなくては面白くねえ
小倉 鉄樹「鎌倉夜話」より
コメント有難うございます。
小倉鉄樹は山岡鉄舟の内弟子の人なのですね。
やはり身近な人の言葉が親しみ深い感じがします。よそいき用の言葉ではないところも、近さを感じます。
ブッダもキリストも、本人は本や活字を残さなかったですが、あまりにももったいない!と思った人たちの口伝の繰り返しで文字として残っているわけですし、文字だけでは失われることも多いとは言うものの、同世代に生きることができなかった人間にとっては、ちょっとした言葉や行動の端々からインスピレーション受けますね。
今後、山岡鉄舟の墓がある全生庵に行って、写経でもしてこようと思ってます。座禅会もやってるみたいですし。。