日常

田口ランディ×通崎睦美「転生」 at四谷

2009-04-18 12:32:53 | 芸術
■詩の朗読とマリンバのジョイント

四谷のコア石響というところで(今年の4月で閉鎖されるらしい!)、「転生」という詩の朗読&マリンバのジョイントを聞いてきた。

作家の田口ランディさんと、マリンバ奏者の通崎睦美さんのジョイント。
これは、2008-10-05に、京都法然院というお寺で開催された朗読会の、東京版再演のようなもの。
その前日まで今度は自分が京都の法然院近くにいたことを思うと、時間と空間がグルグルごちゃまぜになって、くるっと回ってつながった感じ。
『田口ランディ・通崎睦美 ジョイント朗読会in法然院 「転生」』(2008-10-05)


■物語

今回の詩の朗読は、ランディさんの「転生」という本が下敷きになっている。
なんとなく体感したい方はこの本を読んでみるといいかもしれない。
物語の内容は、自分がちょうどここ最近考えて、ブログに書いていた内容とピッタリ同期していると勝手に感じた。

それは、
「自己」。
「開くこと、閉じること」。
「生と死」。


この話は、自意識が開いたり、閉じたりしている物語だと思った。

自意識が開くとは、自分から自由になり、自然や他の生物の視点から世界を見ること。時には宇宙になり、風になり、水になり、そして全てにもなる。

自意識が閉じるとは、自己中心的に世界を見ること。平常の人間生活かもしれない。(ただ、その思考様式は限界があるということを、また別口で書きたい。)

そんな風に、自意識が宇宙に発散して開いたり、自意識のヘドロで閉じたりするような往復運動。そんな運動と、生と死をグルグルつなぐ「輪廻転生」。
そんなイメージで自分は受け取りながら、物語を聞いた。
かなり面白かった。ちょうど考えていることと同期した。

自分が取りつかれように考えていることと、他の人と呼応しながら考えていたこと、そのことと同じような物語が耳に聞こえてくる。
この世界の共時性の不思議さ。
同時代に生きている必然の流れなんでしょうね。



■朗読

朗読について。

朗読を聞くのが何故面白いのかが、ふと分かった。


それは、自分の時間軸がこちらになく、全て相手に委ねるからだ。

普通、読書とは自分の時間軸で読む。
早く読む時もあれば、遅く時もある。
自分の勝手なリズムで読む。

忙しく心に余裕がない時は、時間に追われて急いで読む。速読。
行間を味わう余裕はなく、ただの情報として受け取る。

心にゆとりがある時は、何度もページを読み返しながら、優しく丁寧になでるように読む。

そんな風に、自分の心の状態や、周りの時間軸の渦に巻き込まれた時間尺度で読んでしまう。

ただ、朗読は違う。
他者が、他者の思うスピードで読み上げる。
つまり、他者に自分軸を委ね、他者の中へ自分が入りこまないといけない。
自意識をなくさないと、他者に委ねた時間軸の世界観には入り込めない。

そういう、自分の時間軸を放棄して相手に委ねること。

それが面白いんだと思った。


■マリンバ

ただ朗読を聞いているだけだと、時間軸を委ねているので、心もとない感じがする。寄る辺がない。
軸を放棄するからだ。

そこにマリンバの音が軸となる。
音が持つリズムに身を委ねながら、他者の時間軸で読み上げられる朗読の世界と一体になる。

水の上でユラリユラリと浮かぶ船の上で夜空を見る。
勝手に目に飛び込んでくる星を見て、それを星座に読み解いている情景に近いのかもしれない。


通崎さんのマリンバが、物語の内容と微妙に重なりながら、ずれながら、時には同期して時には外れて行っているから、そこがよかった。
完全に一緒だと(楽しい物語の時に楽しい音楽、悲しい物語の時に悲しい音楽ということ)、感情を支配されているようできっと気持ち悪い。


前回の法然院はお寺だったけど、今回は石壁の音楽ホールだった。
だからなのかわからないけど、地面と空気を媒介にして、自分も音響体の一つとしてココにあるような感覚で、自分が共鳴して音がなっているかのような、地響きのように音が自分に伝わってきたことがあった。
なんとも言葉では表現しにくいのだけど。


■境界

この世にはいろんな境界があるのだけど、自分が閉じずに開いていれば、人との縁というものは、そんな境界とは関係なく無限に広がっている。

マリンバと詩の朗読は、境界を意識したら永遠につながらなかった二つかもしれない。

ただ、お二人が着物好きであるという縁で二人がつながったからこそ、そこから必然的にこういう場が立ちあがった。

そんな縁の結果、勝手に立ち上がった場が、今回の『田口ランディ×通崎睦美「転生」』というものだと思った。
これこそ、「他者との出会い」(2009-04-04)で書いた感覚と同じだ。




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この朗読&演奏会が終わった後に、雑誌「風の旅人」編集長の佐伯さん、マキさんともこさん、東大救急の矢作教授含め、5人で時を忘れて話し込んだ。
そこで非常に刺激を受けたのだけど、それはこの詩の朗読会で感じたことや、最近ブログで書いたこととと緩やかに、そして強烈に連続していると思った。

だから、それはまた別トピックで書きたいな。
でも、書けないかもしれないので、そのときは1年くらい熟成させて書くかもしれない。笑

6 コメント

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うーむ (la strada)
2009-04-18 16:20:19
これは是非とも参加したかったイヴェントだったなぁ。今自分がぐるぐる考えていたことの流れで、この朗読会を聞いたら何かがシューっと繋がりそうでしたが。とても残念!
でもこうして垣間見られただけでも幸せです^^。

こちらは、雨の毎日です・・・。どよーん。
雨というお天気は考え事が尚更進みます。
考えてばっかりおらんで練習せよという感じですが^^;。

でも、この考え事は、かなり楽器との営みにも有効で、最近楽器を手にした時も、世界が違って見えるし聞こえます(…それってスゴイ!皆さまとの出会いに感謝)。下村湖人さんの「論語物語」にもあったけれど、まずは弾き手と楽器がひとつになって(自他が融合する)、そこに聴く人というもう一つの他がさらに融合する。音楽って本当に溶け合う世界なんですよね~~いやはや。

ところでインターネット直りました。
よかったー。
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詩文につき、確かに (H.P.)
2009-04-19 07:02:10
会という形式で、他者と共有したことがなく、ましてや自らも共鳴体として融解したことはなく
未踏の世界です
音楽は降り注ぐもの、絵画は拡がるもの、文学は地から生えるもの、音楽と文学の襲が会を生む雰囲気、想像できました
自意識は出す消す、と理解していましたが、確かに閉じる開くとすると、ひとりよがりの殻に悩まなくて済みそうです
しかしまあ、会、そしてその後にも会、とても羨ましい環境です、環境と言ってしまう段階で主体性を欠いておる当方であります
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視点を変えると、世界の景色が変わること。 (いなば)
2009-04-19 08:51:40
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la strada様
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la stradaさんのような音楽を生業にしている人がああいう場を体感すると、きっと僕らと違うことを感じちゃうんだろうなー。
マリンバの音響っていうのも不思議なものだと思いましたね。
なかなか日常では聞かない音のようでもあるし、なんか懐かしい感じもするし。


雨の日って、湿気がなんとなく嫌なバランスになってくると少し調子狂いますよね。
そういうなんとなく感じる場の雰囲気ってあると思ってるんですが、
自然の天気とかって、目に見えないけどその辺とも関係しているように思える。

でも、雨の日に、雨がポツポツとかザーザーとか振ってる音を聞くこと自体はすごく好きです。
音楽で言うとメトロノームみたいな感じなのかなぁ。



『世界が違って見えるし聞こえます』
ってのはいいね!

かくいうわしも、実は視点を『自意識中心の世界から、他者中心の世界へ』と移行作業中なのですが、そうするといままで見えなかった世界が見えてきています。世界の表側しか見てなかったような、そんな感覚。世界が反転しつつある感覚。

これこそ、風の旅人の佐伯さんと話していて実感できた感覚なのだけど、まだブログのトピックでかけるほどはまとまらないし、整理できないなー。

でも、音楽の溶け合う世界っていうのはよくわかります。はい。

境界って、単に自意識が引いた閉じる構造の境界にすぎなくて、開きだして、境界を往復運動していると、いつのまにか消えちゃうんですよね。
それが正しく『自意識中心の世界から、他者中心の世界へ』の事なんだけど・・。そこから思いやりとか真心とかが普通の流れで軸になってくる。そんな、他者との縁や場を中心に世界を見ていくことなんだけどね。

まだ、うまくキレイに表現できないなぁ。



インターネット、一時直ったけどまたおかしくなったみたいね。
そういうネット回線のトラブルとかって、面倒だよねー。日本でそういうこと起きても、キーーー!ってなりそうになるもの。笑



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H.P.様
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まあ普通は会という形式で、他者と共有しないですよねー。
でも、僕はそういう風に方法論自体を閉じる構造ことを既に疑い始めているのです。

つまり、
「読書とは一人じっと読むもの」
「勉強とは教室で黒板の前で先生がたって、机を整列させて聞くもの」・・・・
なんでもいんですが、まあ固定観念とも言えるかもしれないですけど、
何でも、固定化する方向って、閉じる方向にあって、
そういうやり方であること自体を疑わなくなると思うのですよね。

だから、固定観念で閉じるのではなく、開いて自由に着想していいと思うのですよ。
そして場を体感する。実践する。
そんな実践の場というものも、同様に尊重したい。


生死なんて、観念だけでは絶対にわからなくて、死に行く人とか死んだ人とかを見ないと分かるようにならない。
それと同じようなものかなぁ。


脱線しだしたけど、そういうことで、
音楽、文学、言語、自己と他者・・・
まあ色んな組み合わせや方法論があるわけで、
あまり閉じずに、開いた形で方法論を作っていくのも悪くないのかなーなんて思いますね。

それが、「場」の力かもしれない。


自意識を『出す消す』と理解すると、既に自意識にとらわれちゃうと思うんですよねー。
消さないと!ってまじめに頑張る方向性というか。
それよりも、穴を空けて開くとか、境界線を見ないようにして開くとか、
そういうイメージが自分はしっくりきます。

「開く、閉じる」っていうのは、かなり応用が広い概念だと思うので、
色んな現象にそれを少しずつ適用しながら、少しずつ考えています。

そんなちょっとした考え方しだいで、この世界の意味がほつれ出して、結果として反転しうるのだから、すごく面白いですねー。
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実に素晴らしかった・・・ (ともこ)
2009-04-19 23:55:37
マリンバと朗読の融合を初めて目の当たりにする機会に恵まれ、非常に貴重な体験をしましたよ!ほんとにありがとう、いなばさん!!!!(興奮)

同時に思いがけず矢作先生や佐伯氏にもお目にかかることができて、とても光栄だったな~。稲葉さんが過去の勉強会で資料を見せてくれたランディさんと矢作先生の座談会の内容を思い出したよ。
6~7年くらい前?にあった座談会は、時間としては結構前のことだけど、そこにいた人たちがまた別の形で一緒の空間にいるなんてね・・・過去から今がつながっているし、いなばさんがいつも言っている「偶然が必然」の感覚、まさにソレ!でした。

マリンバの音色とランディさんの声が共に波動になり、自分を過去の座談会があった空間につないでくれたような想いがしましたよ。過去も今もつながって、そこには時間という前と後ろもないくらい、一体になっていました・・・。

『そういう、自分の時間軸を放棄して相手に委ねること。』
これも実感とともに、超納得!面白い!ほんと、そんな感じがしました。時間軸って、ほんとに1つじゃないよね。相手にのる時間軸、自分にのせる時間軸、自と他から離れたところで進む時間軸など、色々なものがあることを最近常々感じます。

時間軸といえば、このように面白そうな雑誌を買いました。(前話してたやつね)
⇒”NEWTON”
http://www.newtonpress.co.jp/science/newton/index.html

物理だからねー、もちろん感覚的ではなく分析的に切り込んでいるけど、「時間とは何か」なんて素敵なタイトルが目に飛び込んできたから、ついついね。色んな角度から時間を味わおうとしています。

英語の時間軸も、現在「時制」教材を開発しているところなので、こつこつ進めていますよー。これもクロステーマとして、楽しんで色々お話しましょう!
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余韻でまだまとまらず、ですが一言… (maki)
2009-04-20 15:39:00
マリンバの音。一つ一つの音符が連なっていくことで連続性ができて曲となること、それから通崎さんの奏で方で無限大の色を音が持つことに感動しました。そして、田口ランディさんの朗読にもまた、こころ奪われました。(感想は、何だか長くなりそうなのと、もうちょっと余韻をにやりとしながら味わってから、にしますね、ふふふ)
同じものを同じ空間で体感した人が、多数いたわけだけどその中でも一人一人の心の中に、まったく違う何かを想起させるエネルギーが、あの場にはあって。それを自分も味わうことができて最高にハッピーでした。俊くん。どうもありがとう。

それからその後の会合。これもまた衝撃的な時間でした。
じゃ軽く飲みに行きましょか、という流れになったあの時、あの後の別の予定なんてどうでもいいから今はこの場に絶対いなくては!という思いを強く私は感じていて、それが何なのか行くまではわからなかったけれども、皆さんとの時間を共有して、またしても出会いの力に、その引力に驚くばかりです。

先日の、あのタイミングでなければこうはならなかったのかな。「偶然で必然」って、私もちょうど考えていたところでして。
返信する
場を共有する不可思議さ。 (いなば)
2009-04-20 22:32:01
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ともこ様
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矢作先生も、佐伯さんも本当に神がかった人で、本当に心の底から尊敬できる、大人の中の数少ないお二人です。間違いなく。
本当に本当に尊敬できる人って、やはり遠い未来を考えながら日々を生きているし、ものごとへの真剣さや、奥深い愛情のようなものを感じてしまう。本当に尊敬しています。
そういう人は。勿論自分っていうのがはっきりあるんだけど、それはドーナツの穴がでかいということなのよね。自意識過剰とは真逆で、周りに包まれているものが巨大で壮大なんだと思う。それは古典とか故人とかも全て含まってる気がする。

宮沢賢治の
*************
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
*************
ここに込められた深い意味を、最近はふと味わっています。


『過去も今もつながって、そこには時間という前と後ろもないくらい、一体になっていました』
ほんとそうだね。
なんか過去とか現在とか未来とか、そういう概念が混然一体となる瞬間って、確かにあるよね。
色んな思い出がフラッシュバックのように現在に、ありありと蘇る時に、それに近い感覚を味わうことがある。

それって、やはり当時聞いた音楽とかでもその扉は開くことがあるし、やはり音、音楽、音波のような聴覚情報って、脳の海馬みたいな記憶野含め、の奥深いところと共鳴しあうんだろうなー。

雑誌NEWTONの時間のトピックも面白そう!
わしも理系の端くれなので、哲学的な議論も好きだけど、サイエンスの文脈で語られる心とか時間とか脳とか、そういうのもモチのロンで大好きなのです。最近は勉強が文系寄りだから、時にはサイエンス言語も読まきゃなー。

ともこさんのご専門である、英語で「時制」を勉強してるってのも面白いよね!そういう言語的なアプローチで時間に近づくと、日本とアメリカの違いも結果として分かるし、重層的に面白いよねー。
その辺、また会う時にでもレクチャーして下さい!
話したり勉強するネタは無限に広がるなー。

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maki様
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なかなか、ああいう場の感想を言語化するのって難しいよねー。
おれも、勢いで感じた瞬間の熱があるうちに言語化してみたけど、もう流石にできないと思う。笑

「場」の力って間違いなくあるよね。
そして、その同じ「場」を共有した人たちって、本当に縁だし出会いだし、自意識過剰に自分を考えると、「縁」、「出会い」、「場」っていうのさえ、自分に都合よく考えがち。自分にどういう得があるかとか、そういう発想法。
でも、最近のブログでも何度も書きまくっているけど、「縁」、「出会い」、「場」っていうそのものをありのまま受け入れる方が絶対にいいと思うのよね。それは、一期一会の言霊に込められているのかもしれん。
そういう風に考えている人たちと場を共有すると、さらに奥深さが増してくる。

だから、あの後に5人で話した内容は、もう再現できない時間で、3時間という時間、誰もトイレにも立たず時計も見ず、あっという間に過ぎてしまって、危うく終電乗り遅れそうになったわけだけど(笑)、ああいう瞬間や時間を、ありのまま大切に思いたいよね。
必然であり偶然であるのは、本当にそう思うね。
出会いや縁を中心に見れば必然だし、自意識からとらえると偶然。単なる視点の違いにすぎないのよねー。

いやはや。でも、本当にいろんな刺激をうけちゃって、思わず一気呵成に『有限の自己を捨て、無限の他者へ。』というブログを書いてしまったけど、あの2次会で感じたことは、正しくココに書いたようなことなのです。

次回の雑誌「風の旅人」も、まだタイトルとかは公表できないとは思うけど、佐伯さんの話聞き限り滅茶苦茶楽しみだねー。
ああやって、編集長自身から、雑誌に込めている思いを聞くと、雑誌の読み方もさらに深くなってくるし、主客一致して読めちゃうよね!
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