(写真は、日本絵巻大成 8 巻二 一紙〜五紙)
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-20 【巻二 檳榔毛車(びろうげくるま) 牛童 榻(しじ)】六紙〜九紙 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8 巻二 六紙〜九紙
(写真は、日本絵巻大成 8 巻二 一紙〜五紙)
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-20 【巻二 檳榔毛車(びろうげくるま) 牛童 榻(しじ)】六紙〜九紙 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8 巻二 六紙〜九紙
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-19 【巻二 関白賀茂詣 (社頭の儀)】一紙〜五紙 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8 巻二 一紙〜五紙
社頭の儀 (京都の用語集(https://ja.kyoto.travel/glossary/single.php?glossary_id=938))
「葵祭」は以前「宮中の儀」「路頭の儀」「社頭の儀」という3部構成でした。
現在は「宮中の儀」が行われず、「路頭の儀」が注目を集めるため、「社頭の儀」は関係者以外ほとんど世に知られていません。
しかし、葵祭はもともと勅使が賀茂の神に進物を奉ることが、ルーツですから「社頭の儀」は祭りの重要な部分であるわけです。
「路頭の儀」で注目を集めるのが「斎王代」なら、「路頭の儀」の主役は「勅使」です。
「祝詞」(神様へのあいさつ状)奉上や、「奉幣(ほうべい)」(神様へプレゼントを進呈すること)では、大勢の参列者の視線が注がれる中、神事が粛々と進んでいきます。
またほかには、舞楽などもあり、中でも「牽馬(ひきうま)の儀」という儀式が面白いです。
社殿の周りを引きまわすのですが、馬を引く「馬寮使(めりょうし)」が神様のいらっしゃる本殿の方を向いてお辞儀をすると、馬もそれに倣ってペコッとお辞儀をするから不思議です。
参列者から、ほのぼのとした笑いが漏れるひと時です。
雨で「路頭の儀」が中止となった場合でも、「社頭の儀」は上賀茂・下鴨両神社で執り行われます。
ただし、その時は儀式も簡略化した内容になるようです。
藤原 伊尹 (ブリタニカ大百科辞典)
生 延長2(924) [没]天禄3(972).11.1. 平安時代中期の廷臣。
「これまさ」とも読む。右大臣師輔の長男。
別称,一条摂政。諡は謙徳公。
天慶4 (941) 年昇殿を許され,天暦9 (955) 年従四位下,頭中将,天徳4 (960) 年従四位上,参議,康保2 (965) 年正四位下,同4年従三位,権大納言に進む。
冷泉天皇の安和1 (968) 年正三位,同2年には大納言で近衛大将を兼ね,天禄1 (970) 年右大臣に進み,次いで藤原実頼の没後,摂政,氏長者となり,同2年正二位,太政大臣に任じられた。
和歌にすぐれ『後撰和歌集』の編纂に参画した。
藤原 伊尹
いかなる折にかありけむ、女に
から衣袖に人めはつつめどもこぼるる物は涙なりけり(新古1003)
藤原 伊尹
しのびたる女を、かりそめなるところにゐてまかりて、かへりてあしたにつかはしける
かぎりなく結びおきつる草枕いつこのたびを思ひ忘れむ(新古1150)
斎戒沐浴(さいかいもくよく) (三省堂 四字熟語辞典)
神仏に祈ったり神聖な仕事に従事したりする前に、飲食や行動を慎み、水を浴びて心身を清めること。
「斎戒」は物忌みをすること。
神をまつるときなどに、心身を清め汚れを去ること。
「沐浴」は髪やからだを洗い清めること。
「沐浴斎戒もくよくさいかい」ともいう。
神宝調度
神宝とは
神宝(じんぽう、かむだから)とは、神社の本殿内陣に納められる、祭神に由緒の深い宝物や調度品、装束類のことである。
広義には神社に代々伝わる宝物のことも含むが、通常はこれらは社宝(しゃほう)と呼び、神宝とは区別する。
元々の神宝は、剣、玉、鏡などの呪具で、古代には氏族の権威の象徴、あるいは氏族の祭祀に使用されたものであった。
『先代旧事本紀』の十種神宝などがそれに当たる。
後に、神像が作られるなど神の擬人化が進むと、神宝の中に、人間が使用するものと同じような日用品が多く含まれるようになる。
例えば手箱、碗、化粧用具、衣服などである。
これらの神宝は、式年遷宮などの社殿更新にあわせて新調された。
その際、それまでの神宝は古神宝と呼ばれ、その中には社宝として神社に残されるものもある。
伊勢神宮で20年毎に行われる式年遷宮では、社殿と共に714種1576点の御装束神宝(装束や須賀利御太刀等の神宝)も造り替えられる。
現在では20年間正殿に捧げられた神宝は、宝殿でさらに20年間保管された後に撤下され、神宮徴古館で展示されたり、他の神社に下げ渡されることになっている。
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-18 【巻一 詞書 】六十二紙〜六十四紙 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8 六十二紙〜六十四紙
所ゞ言葉は雅経卿
絵者光長
年中行事十六巻は、
仙洞様為二 勅定 家重寶二可加者也
又は 朝廷の 御用可立 思召
由 尻池宮卿殿、為奉拝借写所也、
誠至子々孫々堅有、此筆風
以可為一流鑑、必少時不可、他見者也、朝観行幸七段有 所持法橋 住吉如慶 印
二代
同 具慶 印
同 至石
同 内記 印
所々の言葉は、雅経卿
絵者は、光長
『年中行事』十六巻は、
仙洞様の為に 勅定 家重寶二は加えるべき者也
又は 朝廷の 御用立てるべく 思ぼし召す
由、尻池宮卿殿、拝借奉る為の写所也、
誠に子々孫々に至るまで堅く義 有り、此の筆風を
以って一流と為す可き鑑、必ず少時可からず、他見者也、朝観行幸七段有 所持法橋 住吉如慶 印
二代
同 具慶 印
同 至石
同 内記 印
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-17 【巻一 「抜頭(ばとう)」の舞】五十八紙〜六十一紙 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8 五十八紙〜六十一紙
「抜頭(ばとう)」の舞
赤地の砲を着け、糸毛の飾りを巡らしたりょうとうを着け、鳥皮靴をはき、右手を腰に当て、左手に黒漆の撥(ばち)をかざすのはまさし「抜頭(ばとう)」の舞である。
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-16 【巻一 透渡殿(すきわたどの)】五十五紙〜五十九紙 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8 五十五紙〜五十九紙
中は、裾だけ見え、顔は見えない。
料理が並べられている。
簀子の西側から透渡殿にかけて、摂政以下公卿たちが立ち並ぶ。
中には檜扇を開ける人が一人いる。
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-15 【巻一 舞御覧(まいごらん)の見物人たち】五十四紙〜五十六 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8 五十四紙〜五十六
舞御覧(まいごらん)
舞楽を見るため東中門(右手)に集まる人々。
警護の武官や院御所の女房、女、子供、
中には狩衣人々に混じり、束帯の姿も見える。
此時代、舞楽は人々にとって楽しみのひとつであったようだ。
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-14 【巻一 のどかな新春二日目 夜の松明と褄折笠を重たげに担ぐ仕丁】五十紙〜五十三 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8 五十紙〜五十三
夜の松明と褄折笠を重たげに担ぐ仕丁。
板橋を隔てて、賀茂の河原には、老若男女の見物の人々。
のどかな新春二日目の喜色が人々の顔にみなぎっている。
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-13 【巻一 (かもん)窠文、窠紋、家紋】四十八〜五十紙 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8 四十八〜五十紙
鳥兜(とりかぶと)をかぶった窠文の襖(あお)をつけた楽人
鳥兜(とりかぶと)
1 舞楽の襲装束 (かさねしょうぞく) に用いるかぶり物。鳳凰 (ほうおう) の頭をかたどり、厚紙に金襴 (きんらん) ・紅絹 (もみ) などをかぶせて作る。曲により形式・色彩などが異なる
2 植物(トリカブト)
窠文(かもん) (日本大百科事典)
窠は、元来動物の穴巣を意味しているが、転じて円形の区画を穴巣に見立てて、そのなかに唐花(からはな)が入っている文様を窠文という。
またその形が瓜(うり)を輪切りにしたときの断面に似ているので、木瓜文(もこうもん)とよぶ場合もある。
元来中国の唐代、朝服に用いられた文様の一つであったが、奈良時代に日本に伝わり、のちに公家(くげ)の有職(ゆうそく)文様となる。
この文様は、単独に使用される場合と、霰(あられ)の地文と結び付いて、窠に霰文様となる場合がある。後者は中世以後の表袴(うえのはかま)や裳(も)に多く使用される。[吉村元雄]
窠
窠紋に同じ。
窠紋 (大辞林)
有職文様の一。円弧を花弁のように四、五個輪につなぎ合わせた形。中に唐花や鳥を配する。
鳥の巣の形とも瓜を輪切りにした形ともいう。御簾みすの帽額もこうの装飾に用いられるので帽額紋ともいい、「木瓜もつこう紋」ともいう。
窠。
家紋
そもそも家紋制度は、戦前は旧民法の下、「家制度」が存在しており、自家の家紋が入った紋付袴が日本の正装とされていた。
家紋付きの着物や羽織、小物など多く見られ、仏壇に家紋が付いている場合がある。
しかし戦後から日本で西洋化が一段と進んだ結果、家紋は古典的なものとして考えられるようになり、今では家紋が入っているものといえば墓石が代表的なものになっている。
さらに昨今ではお墓を持つ方も減ってきているため、自分の家紋が入っているものを一切持たず、自分の家紋がわからない方もいらっしゃるらしい。
家紋とは先祖から代々伝えられてきた家を表す紋章で、今風に言えば「我が家のロゴマーク」とも云える。
一方、同じ名字の皆同じ家紋というわけではない。
同じ名字でも出身地や家系・家業などによって様々な種類の家紋が伝わっており、名字は違っていても同じ家紋が伝わっている家も多く存在する。
家紋は名字と合わせて自分の家系やルーツを実感できる親しみやすいシンボルとも云える。
襖(あお)
1 両方の脇(わき)をあけたままで、縫い合わせず、襴(らん)のない古代の上着。
位階相当の色によるものを位襖(いあお)といい、武官の礼服や朝服に用いた。
わきあけのころも。闕腋(けってき)の袍(ほう)。
2 《「狩襖(かりあお)」の略》狩衣(かりぎぬ)。
3 袷(あわせ)の衣。綿を入れたものもある。襖子(あおし)。
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-12 【巻一 扈従(こしょう)、翳(かざし)】四十四〜四十七紙 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8
【巻一 後白川上皇の法住寺殿】四十一〜四十四紙
日本絵巻大成 8 四十三〜四十七紙
鳳輦を囲んで、すでに馬から降りた近衛の次将以下、扈従(こしょう)の面々を描く。
赤衣の仕丁二人が、翳(かざし)を高々と上げる。
扈従(こしょう)
[名](スル)貴人に付き従うこと。また、その人。こじゅう。
「殿上人や上達部 (かんだちめ) がなお相当に―していて」〈谷崎・少将滋幹の母〉
扈(コ、したがう、つきそう、はぶびこる、ひろい)
したがう。つきそう。つきしたがう。
主人のお供をする者。従者。
ひろい。広大。
「跋扈(ばっこ)」は、思うままに振る舞うこと。のさばりはびこること。
仕丁 (しちょう) (日本大百科全書)
「じちょう」ともいう。
古代に行われた徭役(ようえき)制度の一つ。
養老令(ようろうりょう)によると、仕丁は50戸ごとに2人が点ぜられ、中央官衙(かんが)で雑役に従ったが、1人は廝丁(かしわで)として炊事を担当した。
仕丁には官粮(かんろう)が支給され、また労役の代償として租税のうち調・庸・雑徭(ぞうよう)が免除された。
仕丁制の起源は大化前代にまでさかのぼり、30戸を単位として2人が点ぜられていたのが、大化改新の際に50戸を単位として点ぜられることになった。
その際、仕丁を養うために各戸から布と米を徴収し、これを庸とよんだ。
この仕丁の庸は、歳役(さいえき)に従事するかわりに庸を出す制度が成立すると、これに吸収された。
しかし718年(養老2)4月に至って、仕丁を出した戸が銭や綿を出す養物(ようぶつ)の制度として復活した。[長山泰孝]
『彌永貞三著『日本古代社会経済史研究』(1980・岩波書店)』
翳(かざし)
1 頭上に掲げて,覆ったり陰を作ったりすること。また,その物。
2 能で,扇を高くかざす型。
3 (「茀」と書く)外からの視線をさえぎるために設けた塀や外の樹木、土手など。城や武家屋敷、御所などにも見られる。
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-11 【巻一 後白川上皇の法住寺殿】四十一〜四十四紙 中央公論社 小松茂実編
日本絵巻大成 8
【巻一 後白川上皇の法住寺殿】四十一〜四十四紙
日本絵巻大成 8 四十三〜四十七紙
鳳輦、後白川上皇の法住寺殿に着御
寝屋(前図)、透渡殿(すきわたどの)、西対(にしのたい)、西中門とその廊に続く。
門の内。
庭の幕の前には、公卿が並ぶ。
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-10 【巻一 院御所(法住寺殿)、窠文(かもん)他】三十四〜四十紙 中央公論社 小松茂実編
【巻一 院御所(法住寺殿)】三十四〜四十紙
祇園祭 鷺舞 (八坂神社にて)
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-9 【行列の後陣と見物の群衆】二七〜三十三紙 中央公論社 小松茂実編
【巻一 行列の後陣と見物の群衆】二七〜三十三紙
褐衣の舎人
褐衣(かちえ)
褐衣(かちえ)・褐襖(かちあお)は、日本古代から中世にかけて、地下武官や左右近衛の随身(ずいじん)、鷹匠が用いた上着で狩衣(かりぎぬ)の一つ、および武家装束。
舎人(とねり)《「との(殿)い(入)り」の音変化かという》
1 古代、天皇・皇族の身辺で御用を勤めた者。
2 律令制で、皇族や貴族に仕え、護衛・雑用に従事した下級官人。
内舎人・大宮人・東宮舎人・中宮舎人などがあり、貴族・下級官人の子弟などから選任した。大宮人
3 牛車 (ぎっしゃ) の牛飼いや乗馬の口取り。
4 宮内省式部職の判任名誉官。式典に関する雑務に当たった。宮内省式部職
式部職
① 宮内省の一部局。1884年(明治17)式部寮を改称して設置。宮中の祭典・礼式・交際・雅楽などをつかさどる。
一説には唐代にみられた正月に松の枝を門に飾る風習が平安時代に日本に伝わったという(ただし中国で正月に松を飾る地域は限られている)。
平安時代の宮中では「小松引き」という行事が行われた。
これは、初子の日に外出して松の小木を引き抜くという貴族の遊びで、持ち帰った「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣があり、門松はこれが変化したものと考えられている。
現在も関西の旧家などでは、「根引きの松」という玄関の両側に白い和紙で包み金赤の水引を掛けた根が付いたままの小松(松の折枝は略式)が飾られる。
祇園祭 鷺舞 (八坂神社にて)
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-8 【突然走り出した二両の車と見物人達の様子】二三〜二六紙 中央公論社 小松茂実編
【巻一 突然走り出した二両の車と見物人達の様子】二三〜二六紙
街並みの中には、見物客でごった返している。
家の中には、一献交わして、酒に浮かれている。
踊る人々。
突然走り出した二両の車。
馬は嗎き、人々は驚いて車にひかれぬように避ける。
この場面は面白い^^
祇園祭 鷺舞 (八坂神社にて)
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-7 【待賢門(たいけんもん)、宮城十二門】十三〜十六紙 中央公論社 小松茂実編
【巻一 待賢門(たいけんもん)、宮城十二門】十三〜十六紙
待賢門(たいけんもん) (大辞林)
平安京大内裏の外郭十二門の一。
大内裏の東面の中央にある。郁芳門の北、陽明門の南。中御門なかみかど。 →大内裏
大内裏 (たいだいり とも云う)
天皇の居所である内裏を中心として朝堂院や諸官庁を配置した一郭。
多く平城京・平安京についていう。
都の中央北に位置し、大垣に囲まれる。
平安京大内裏は南北四六〇丈(約1394メートル)、東西三八四丈(約1164メートル)を占める。
宮城。
宮城十二門(陽明門から時計回り)
十二門 (大辞林)
平安京大内裏の外郭にある一二の門。
陽明門(東側)
待賢門
郁芳門
美福門(南側)
朱雀門
皇嘉門
談天門(西側)
藻壁門
殷富いんぷ門
安嘉門(北側)
偉鑒いかん門
達智だつち門。
祇園祭 鷺舞 (八坂神社にて)
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-6 【建礼門(けんれいもん)、白馬節会(あをうまのせちゑ )】五、六紙 中央公論社 小松茂実編
【巻一 建礼門(けんれいもん)、白馬節会(あをうまのせちゑ )】五、六紙
建礼門(けんれいもん)は、平安京内裏の外郭門の1つ、または、京都御所の門の1つ。
平安宮内裏外郭の南正面にあり、内郭の承明門(じょうめいもん)と相対する。
東西の築墻はそれぞれ39間で、その両端に春華門および修明門があり、門外の東西に仗舎を設け、舎前に炬火を焼き、左右の兵衛がこれを警固した。
白馬節会(あをうまのせちゑ )がこの門前で行われた事から「青馬陣」ともいい、内裏の南にあるから「南端門」ともいい、外郭にあるから「外門」ともいい、「南面僻仗中門」ともいった。
構造としては檜皮葺(ひわだぶき)、切妻屋根の角柱の四脚門である。
京都御所南面正門は建礼門である。
現在も天皇皇后及び外国元首級のみが通ることのできる、最も格式の高い門とされ、御所一般参観時にも開門されることはないが、間近で見学することはできる。 (ウィキペディア)
正月七日、左右の馬寮(めりよう)から二十一頭の「あをうま」を庭に引き出し、年中の邪気を除くとしてそれを天皇がご覧になって、そのあと宴を行った儀式。
【白馬の節会】
「白馬」と書いて、なぜ 「あおうま」と云うのか?
「あをうま」は、初めは青毛、または青みをおびた灰色の毛の馬であったが、醍醐(だいご)天皇のころから白馬に変わった。