写真は、大神神社(三輪神社)奉納 能 (観世流) 『須磨源氏』
『源氏物語』「須磨」 1 岩波の古典文学大系(片岡仁左衛門様と中村扇雀様に感謝して、歌舞伎『堀川波鼓』を掘り下げるために)『堀川波鼓』『松風』
只今 岩波の古典文学大系で『源氏物語』「須磨」を読んでいるが、少しわかりやすくするために、ネット検索をすることにした。
以前万葉集の専門家の先生に古典の手ほどきを受けていたが、その講義の一つとして『源氏物語』「須磨」も習ったことがあるのを覚えている。
所々の話の展開や輝くような単語などを覚えているので間違いはない。
だが、如何にせんむ、しっかりとした話の展開は想像がつくが読みこなせていない。
なので、『源氏物語』「須磨」に関連する「須磨」を読むことにした。
「須磨」はまず 岩波の新日本古典文学大系(緑)で10ページほど読み進めた。
然し、難しい(汗)
仕方がないので、岩波の古典文学大系(赤)で半分ばかり読み進めた。
古典文学大系は読みやすい。
松と月が輝いて感じられる。
だが、ここでネット検索をして概ねを知り、昼からは図書館に出向いて「須磨」の現代語訳を借りてきたい。
恥ずかしながら私は現代語訳を持っている話が少ない。
そうだ!図書館に行こう!的な感覚だ。
『源氏物語』「須磨」 ネット検索
『源氏物語』whikipedhiaより
『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。
文献初出は1008年(寛弘五年)。
作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である。
主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた。
下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。
これが『源氏物語』の始まりである。
当時は紙が貴重だったため、紙の提供者がいればその都度書き、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。
それを機に宮中に上がった紫式部は、宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』が完成した。
なお、源氏物語は文献初出からおよそ150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された。
現存する絵巻物のうち、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20か国語を超える翻訳を通じて世界各国で読まれている。
須磨 (源氏物語)whikipedhiaより
朧月夜との仲が発覚し、追いつめられた光源氏は後見する東宮に累が及ばないよう、自ら須磨への退去を決意する。
左大臣家を始めとする親しい人々や藤壺に暇乞いをし、東宮や女君たちには別れの文を送り、一人残してゆく紫の上には領地や財産をすべて託した。
須磨へ発つ直前、桐壺帝の御陵に参拝したところ、生前の父帝の幻がはっきり目の前に現れ、源氏は悲しみを新たにする。
須磨の侘び住まいで、源氏は都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、淋しい日々を送る。
つれづれの物語に明石の君の噂を聞き、また都から頭中将がはるばる訪ねてきて、一時の再会を喜び合った。やがて三月上巳の日、海辺で祓えを執り行った矢先に恐ろしい嵐が須磨一帯を襲い、源氏一行は皆恐怖におののいた。
須磨巻起筆説
源氏物語のおこりなどいくつかの古注には『源氏物語』が現在冒頭に置かれている「桐壺」の巻から書き始められたのではなく、この「須磨」の巻から起筆されたとする伝承が記録されている。
四辻善成の『河海抄』には村上天皇の皇女選子内親王から新しい物語を所望されて石山寺にこもって構想を練っていたところ、8月15日夜、琵琶湖の湖面に映った月を見て源氏物語の構想を思いついて須磨の巻の「こよいは十五夜なりと思し出でて」と書き始めたとしている。
但し現在では須磨の巻から起筆されたとする伝承は事実に基づくものではないと考えられている。
みなさま、拙ブログにお越し下さいましてありがとうございます。
感謝申し上げます。
片岡仁左衛門様,中村扇雀様,ありがとう!の『堀川波鼓』関連記録
能 (観世流) 『須磨源氏』
老人が源氏の化身とほのめかし、姿を消す。
光源氏があらわれ、舞い、夜明けに 「失せにけり~~~」
心に残る『須磨源氏』にしばし時間を忘れてしまいました。
関係者のみなさま、充実した楽しい時間を過ごさせていただき、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。
三輪明神 大神神社にて、春の大神祭 後宴能
能 (金剛流) 『三輪』