チェコの歴史
歴史(Wikipedia)
古代〜中世まで 古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。
その後ゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。
7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配、続いてアバール人が支配者となった。
9世紀前半、スラヴ人が大モラヴィア王国を建設した。
大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。
カレル4世時代のボヘミア王冠領 西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国(チェコ語版、英語版))。
907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配を受けることになった。
10世紀後半からカトリックが普及した。
11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。
12世紀のオタカル1世の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。
13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。
14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。
ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。
首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。
この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。
15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」とみなされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱が起きた(フス戦争)。
その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。
チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。
この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。
なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「暗黒時代」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国、続く共産主義政権のプロパガンダが多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。
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