「悉成荒野」と「宣胤卿記」にある。応仁の乱後文明十二年(1480年)の仁和寺の姿である。
「続史愚抄」正保三年(1646年)に「入道一品覚深親王開旧地再造仁和寺伽藍己下」とあり、「徳川実紀」に「仁和寺門跡覚深法親王使もて物奉り搆造を謝せらる」とある。この覚深法親王は後陽成天皇の第一皇子、秀吉から皇位継承者に押されていた良仁親王である。しかし江戸幕府が天皇としたのは後水尾天皇であった。豊臣色の排除である。仁和寺本寺の旧地に、寛永二十年(1643年)慶長内裏の紫宸殿を移築し金堂にしたのを始め、その後も御所、清涼殿・御常御殿、からの移築また仁王門、五重塔など新築と仁和寺の伽藍が整備された。(福山敏男著作集「寺院建築の研究下」所収「仁和寺の創立」参照)
金堂
仁王門 仁王門そして中門
現在の境内は嘗ての仁和寺本寺、中門の内、と円堂院、そして観音院+南御室(?)の旧地を占め広大さを誇る。覚深法親王がどんな伽藍配置を考えたのか分からないが、もしかすると応仁の乱前の、或いは平安期の姿を思い描いていたのかも知れない。中門は廻廊で、講堂(今の金堂)と結ばれ、新たに金堂をその中に置く。五重塔、経蔵、鐘楼はその外である。そう考えると、今は桜で賑わうが、寒々とした空地は埋まるのだが。
五重塔 経蔵 鐘楼
仁王門、中門、五重塔、鐘楼は和様で復古調を醸し出しているのだが、何故か経蔵だけが禅宗様で建築されており、伽藍の中で異様でもある。また分からないのは観音堂である。和様なのだが側面に板唐戸に混ざって桟唐戸があり、統一されているとは言い難い。この二堂は新築なのであろうか。
観音堂
「仁和寺諸堂記」には鎮守も記載されている。場所は分からない。現在は九所明神として中門の内にある。
九所明神
(注)2011年3月撮影