京都は都、鎌倉は鄙、京都では足利義満、鎌倉では足利満兼の共に晩年の頃である。都鄙不和が深刻化する直前、応永14年(1407年)、鄙の北の地に円覚寺舎利殿に酷似する仏殿が建立されたとされている。しかし疑問が残る。この応永14年というのは昭和8年(1933年)の解体修理の際発見された墨書銘からの推定で、北条時宗開基ということであれば弘安年間(1278-1287年)の建立ということも有り得る(墨書銘を見つけた解体修理の報告書「国宝正福寺地蔵堂修理工事報告書」ではこの弘安説を採る)。尾垂木尻持送と墨書銘が見つかった場所から考えると建立でなければ大修理であるが。この墨書銘には僧の名しかなく、資金源の名がない。大工棟梁の名もない。しかしその類似性から旧太平寺仏殿(円覚寺舎利殿)と、少なくとも大工棟梁は同じ系列と考えるのが自然と思える。三間四方と仏殿としては大きくないが、裳階をつけた姿は鄙にある堂宇と一言に片付けられない。定型的ではあるが。
(注)2010年10月撮影
本尊は地蔵菩薩、そして千体地蔵と本寺である建長寺を真似る。江戸時代からの話かも知れないが、この地蔵信仰が、鄙の力が屋根の葺替・修理を可能にし、この地蔵堂を守ってきたのではないだろうか。全く都を意識していないところがいい。
(注)2011年11月撮影