山の中に浄瑠璃寺はある。嘗ては奈良と近江を結ぶ、いわば幹線から一寸外れたところであった。平安貴族が隠棲した寺のような趣である。浄瑠璃寺、その名が意味するように薬師如来が本尊であったようである。この山間にも浄土信仰が入りこみ、阿弥陀如来が本尊にとって代わられる。。阿弥陀仏を対象として、その浄土を観想しようとする、極めて視覚的な世界である。興福寺の恵信(関白法性寺殿藤原忠通の子)が園池を造営、この頃の流行のようである。しかし平安貴族が造りあげた浄土庭園ではない、あくまで僧侶として「観無量寿経」、観仏三昧の場を実現させようとの意図であったのであろう。本堂は当然のことながら九体仏と僧侶だけの場所である。
本堂
三重塔は治承2年(1178年)京都一条大宮からの移築、本堂も池も完成した後のことである。且つ本堂、九体仏を見下ろすように立つ。薬師如来の安置する場だけなのか、若干不可解ではある。
三重塔
(注)2009年9月撮影
「雍州府志」、天和2年(1682年)には「今悉く廃壊す。九体弥陀の像の存する有り。故に世人、浄瑠璃寺の号を知らず直に九体仏と称するのみ」とある。天明7年(1787年)の「拾遺都名所図会」にも同様の記載がある。向拝を付加したのも江戸時代のことである。本堂の前からの礼拝となったのであろう。三重塔に安置された薬師如来も、浄土庭園としての園池も、庶民の視野の外である。しかし寺領もなく浄瑠璃寺が維持されてきたのは、この庶民の力であろう。