東大寺の鎌倉期再興は当時必ずしも評判の良くない入宋僧に始まり、これまた評判の芳しくない入宋僧に引き継がれる。鎌倉時代初期、武家政権と公家政権が並立していた時期、公家政権の一人からの意見であるが(慈円「愚管抄」)。しかし勧進僧の重源を造東大寺大勧進職に任命せざるを得、その公家政権であった。注目すべきは既存勢力以外から再興を担う僧が輩出したということであろうか。平氏により盛んとなった宋との交易も忘れてはならない。激動の社会に、演じ古い時代を切って捨てる人々、そして一方で無常感あるいは無力感をかこつ傍観者達という構図であろうか。
願望の大きさを、そのまま大きさに表した大仏像を生かし続けるには、創建当時の大きさを維持し続けることが必要であった。創建当時と異なるのは朝廷の求心力である。勧進僧に頼らずにはいられないのである。問題は造営資金である。合理性を追求する所以である。入宋僧であることは必要条件であったのであろう。南大門を池田満寿夫は「古陶を見るように人為を超越した美しさを保っている」という(不滅の建築5「東大寺南大門」毎日新聞 1988年)。古色の美を云っているのであろうか、高さを表現するための、無駄のなさ、遊びのない合理性を陶器に見立てているのであろうか。もっとも直近で南大門が丹塗されたのは、明治十二年(1879年)である(「東大寺南大門史及昭和修理要録」文生書院 2005年1月、原文は1930年4月)。
南大門
治承四年(1180年)十二月二十八日、大仏殿以下焼失したが、「東大寺続要録」に「所残法花堂二月堂同食堂三昧堂僧正堂鐘堂唐禅堂上司倉下司倉正院国分門中御門砧�仗門南院門等也」とあり、鐘楼は被災していない。南大門の場合は焼失したともしないとも記述がない。どちらも再建の経緯が不明である。鐘楼は26.4トンの重さのためか、地震で梵鐘が落ちたり、大風で鐘楼が倒れたことがあったようだが、鎌倉再建の鐘楼は梵鐘の重さに耐えそうな構造体に、反りの強い屋根が載る。延享二年(1745年)の修復で高くなった屋根を、昭和の解体修理で鎌倉再建時の姿の戻したそうだが、意匠的にはどちらがいいとも云えぬと思われるほど、梵鐘を釣る架構部の印象が強い。まさに合理性の追求そのものである。(参照:「奈良六大寺大観 東大寺」岩波書店 1991年)
鐘楼
(注)2013年1月撮影