「日本の建築的空間の特徴の一つは水平線志向」であると、加藤周一は言う(「日本文化における時間と空間」岩波書店 2007)。浅間大社はその本殿を重層とし、高さを志向したように見える。文久元年(1861)刊の「駿河志料」に「当社の神殿は内陣の上に楼閣あり、・・・貞観六年(864)、神造の社宮ニ重高閣とあるに依れる制作なり」とある。「日本三代実録」貞観七年十二月九日の条に、「中有一重高閣、以石構営、彩色美麗」とあるのを指しているのであろう。なお「国府浅間神社」の条に「此神造の社宮とあるは自然になれる物にて、甲斐国河口浅間の社地に石の形をなせる也」。少々小さいが美麗石のことであろうか。
本殿・拝殿そして楼門は慶長九年(1604)徳川家康による造営と云われている。現在本殿棟紋は「菊」の御紋となっているが、寛文十年(1670)の「浅間大社境内絵図」によれば、「葵」とともに「棕櫚」の紋が描かれている。「棕櫚」は富士氏の家紋である。富士氏は浅間大社の宮司であると同時に、この地域の領主でもあった。本殿を重層としたのは、「日本三代実録」に依ったというのも、否定は出来ないが、富士氏の領主としての矜持を表現したと考えられないだろうか。この時代から鑑んがみると、天守閣に倣ったのでは。
なお現在は両下造の幣殿で、複合社殿となっているが、寛文十年(1670)の絵図では、本殿と拝殿の間は繋がっていない。宝暦七年(1757)、社殿大破のため修理したとある(「宝暦集成絲綸録」)。現在の構成となったのは、この時であろうか。
(注)2014年10月撮影
本殿・拝殿そして楼門は慶長九年(1604)徳川家康による造営と云われている。現在本殿棟紋は「菊」の御紋となっているが、寛文十年(1670)の「浅間大社境内絵図」によれば、「葵」とともに「棕櫚」の紋が描かれている。「棕櫚」は富士氏の家紋である。富士氏は浅間大社の宮司であると同時に、この地域の領主でもあった。本殿を重層としたのは、「日本三代実録」に依ったというのも、否定は出来ないが、富士氏の領主としての矜持を表現したと考えられないだろうか。この時代から鑑んがみると、天守閣に倣ったのでは。
なお現在は両下造の幣殿で、複合社殿となっているが、寛文十年(1670)の絵図では、本殿と拝殿の間は繋がっていない。宝暦七年(1757)、社殿大破のため修理したとある(「宝暦集成絲綸録」)。現在の構成となったのは、この時であろうか。
(注)2014年10月撮影