「元亀二年(1571)信長の兵火にかかって、烏有と成。本堂は幸にまぬかれたり」と「近江與地志略」(寒川辰清編 享保八年(1723))にある。本堂、六所権現の他に、ここには記されていないが、塔、仁王門が残ったと云う。仁王門は昭和二十八年(1953)に大雨で流失して、仁王像は本堂外陣に残っているものの、今はない。塔は湖東三山或いは湖南三山といった天台宗寺院としてみると、あってもおかしくないのだが。本堂だけでなく仁王門、塔が残ったということは、信長の焼打ちは全山焼打ちを目的としたということではないのだろう。決して「山間にありしを以て」(清水新兵衛編「新撰近江名所図会」文泉社 1909)とは思えない。僧坊が目当てだったということではなかろうか。
本堂は延文五年(1360)に焼失後、貞治五年(1366)には再建された。南面し、前庭は狭い。向拝を付加するのが流行した後世になっても、取り付けず、正面の石階を改修するに留まっている(滋賀県教育委員会編「国宝善水寺本堂修理工事報告書」1976)。正面性に留意することはないが、山岳寺院の本堂としての求心性を保っているように見える。寺号の由来となった湧水も、また不動明王が刻まれた岩もある。焼打ち前は修行にふさわしい場所であり、世間からは隔絶した世界を作っていたのでは、即ち修行僧のための寺院であった。しかし廃絶しなかったのは「山麓の農民是を守り、或は諸家の僧徒寓居す」(「近江與地志略」)とあるように、修行場からの転換故ではなかったのではないだろうか。
(注)2014年12月撮影
本堂は延文五年(1360)に焼失後、貞治五年(1366)には再建された。南面し、前庭は狭い。向拝を付加するのが流行した後世になっても、取り付けず、正面の石階を改修するに留まっている(滋賀県教育委員会編「国宝善水寺本堂修理工事報告書」1976)。正面性に留意することはないが、山岳寺院の本堂としての求心性を保っているように見える。寺号の由来となった湧水も、また不動明王が刻まれた岩もある。焼打ち前は修行にふさわしい場所であり、世間からは隔絶した世界を作っていたのでは、即ち修行僧のための寺院であった。しかし廃絶しなかったのは「山麓の農民是を守り、或は諸家の僧徒寓居す」(「近江與地志略」)とあるように、修行場からの転換故ではなかったのではないだろうか。
(注)2014年12月撮影