松前氏の祖武田信広が構えた勝山館のあった夷王山の、海に落ちる麓に上国寺はある。海に向かって北面する。菅江真澄の「蝦夷喧辞弁」によれば「快山法印の永禄のむかしひらき給ひて」とあり、永禄の頃(1558-70)開創と云われている。松前氏の本拠地は、松前に既に移っており、松前と名乗り始めた慶広の代、父祖の本拠であった勝山館が廃された頃である。
現在の建物は宝暦八年(1758)の建立である(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財上國寺本堂保存修理工事報告書」2012)。菅江真澄がいう「ちかき世となりて、なもあみだふとなふ寺とはなりぬ」、浄土宗の寺として再興したということであろう。また「此寺のかどさし出れば宮ところあり。何神ととへば鯡神といらふ」とあり、上国寺再興の原資となったのは鯡であったことを伺わせる。
(注)2017年6月撮影
消えかかった線刻などが、厳しい風雪の土地であることを示し、そのためか開口部を減らした形をとる。軒回りも、雪の重さに耐えるためか、太い腕木で木負を支える。木鼻の彫刻や向拝の彩色は北辺の地での自負を表しているのであろうか。
現在の建物は宝暦八年(1758)の建立である(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財上國寺本堂保存修理工事報告書」2012)。菅江真澄がいう「ちかき世となりて、なもあみだふとなふ寺とはなりぬ」、浄土宗の寺として再興したということであろう。また「此寺のかどさし出れば宮ところあり。何神ととへば鯡神といらふ」とあり、上国寺再興の原資となったのは鯡であったことを伺わせる。
(注)2017年6月撮影
消えかかった線刻などが、厳しい風雪の土地であることを示し、そのためか開口部を減らした形をとる。軒回りも、雪の重さに耐えるためか、太い腕木で木負を支える。木鼻の彫刻や向拝の彩色は北辺の地での自負を表しているのであろうか。