空海「聊かに修禅の一院を建立せむ」(性霊集補闕抄」と上表し、弘仁七年(816)高野山に金剛峯寺を開創する。大日如来の三密と一体化、即身成仏するには、山上に曼荼羅を具現することが不可欠であった。「性霊集」に「金剛乗秘密教に依って両部の大曼荼羅を建立せむと欲む」とある。弘仁九年(818)「空海、去むじ月の中旬より高野山寺に来り住す。菴室を造ることに限られ・・・」との消息文が残る(「高野雑筆集」)。康保五年(968)の「金剛峰寺建立修行縁起」に「多宝塔一基。高十六丈。・・・。三間四面講堂一宇。・・・。廿一間僧房一宇。已上大師御在世」とある。しかし大塔は在世中には完成せず、落慶するのは二世真然大徳の時であった。「三間四面真言堂一宇。奉安置両界曼荼羅・・・。一間四面真言堂一宇。・・・。九丈多宝塔一基。・・・。已上三真然僧正仁和三年(887)丁未依勅建立之。」と金剛峯寺完成まで七十年を要した。
参考文献:「古寺巡礼 西国 1.高野山金剛峯寺」淡交社 1981
大門
西塔
学侶方(青巌寺)、行人方(興山寺)、聖方(大徳院)の三派が解体し、明治二年(1869)青巌寺と興山寺が合併し、現在の金剛峯寺となった。本坊は文久三年(1863)の造営で、書院、その横に玄関そして台所と横に並ぶ。この構成は規模は違うが、子院にも共通する。
金剛峯寺
(注)2021年11月撮影
参考文献:「古寺巡礼 西国 1.高野山金剛峯寺」淡交社 1981
大門
西塔
学侶方(青巌寺)、行人方(興山寺)、聖方(大徳院)の三派が解体し、明治二年(1869)青巌寺と興山寺が合併し、現在の金剛峯寺となった。本坊は文久三年(1863)の造営で、書院、その横に玄関そして台所と横に並ぶ。この構成は規模は違うが、子院にも共通する。
金剛峯寺
(注)2021年11月撮影