中田観音弘安寺は保科正之が定めたと云われる会津三十三観音の第三十番札所である。本尊の十一面観音の光背には、文永十一年(1274)善仏と銘がある。善仏は佐布川の長者江川常俊とみられ、観音像を安置する四間四面の堂舎を建立した。別当弘安寺の開創は弘安二年(1279)、施主冨塚盛勝は臨済宗であったが、寛永十九年(1642)天寧寺の会下通巌が再興、天寧寺の末寺となり曹洞宗となった。因みに三十三観音では曹洞宗が十二寺、次いで真言宗が十寺、天台宗七寺、臨済宗二寺、浄土宗一、廃寺一寺である。曹洞宗は阿賀川を遡上して、恵日寺が勢力を持つ会津盆地にその教線を伸ばした。玄翁心昭が喜多方に慶徳寺を開創したのが応安元年(1368)、示現寺は永和元年(1375)である。この弘安寺の本寺である天寧寺は応永二十八年(1421)祖景が葦名盛信の外護により開創した。現世利益に加えて浄土信仰の広がりが観音信仰の背景にあり、三十三観音の設定は江戸時代に入って巡礼が流行したためであろう。宗派はあくまで寺側の都合で、人々の求めるのは薬師如来の、観音のご利益であったのであろう。
この観音堂は寛永十九年(1642)修復、新編会津風土記では宝暦七年(1757)となっている。この修復の時、観音像を安置していた厨子を堂外に出し弁天堂とした。
参考文献;鈴木泰山「禅宗の地方発展」畝傍書房 1942.
(注)2014年6月撮影
この観音堂は寛永十九年(1642)修復、新編会津風土記では宝暦七年(1757)となっている。この修復の時、観音像を安置していた厨子を堂外に出し弁天堂とした。
参考文献;鈴木泰山「禅宗の地方発展」畝傍書房 1942.
(注)2014年6月撮影