一葉一楽

寺社百景

籠神社 - 再び神明造

2011-10-26 20:33:42 | 神社

籠神社は丹後国一宮であった。その社殿は「伊勢神宮とほぼ同様式の唯一神明造であって、古来、三十年毎に御造替の制となっている」と籠(この)神社のHPにある。棟札には弘化二年(1845年)の造替とのことである。同じく明治以前の神明造である長野県大町市の仁科神明宮では、残る棟札で永和二年(1376年)、南北朝時代まで遡ることが出来る。延喜式神名帳に載る籠神社の本殿の神明造はどの時点まで遡ることができるのであろうか。

              

              拝殿

宝暦11年(1761年)小林玄章他編の「丹後州宮津府誌」に一宮籠神社は豊受皇太神を祭神とし、伊勢神宮外宮の本所なりと社記にあるとする。続けてその本殿は千木、鰹木のある神明造で、三十年の式年造替を実施し、その折には将軍家から一万貫余の援助があったと書かれている。少なくとも宝暦年間には神明造であったことが分かる。現在の本殿の西側には空地があり、式年造替の用地であったのではないかと思わせる。しかし「丹後州宮津府誌」が正しいとすれば、本殿は外宮正殿を模しているはずであるが、鰹木は10本と内宮正殿と同じである。では内宮正殿と全く同じかといえば、座玉は16個、檜皮葺、柱は礎石・基壇の上と内宮とは異なる。意図的な変更・模倣であろう。しかし、全体のバランス、木割が細いためか、或いは屋根が萱葺でないためか、伊勢神宮のような重厚感がない。何故伊勢神宮が萱葺なのか分かったような気にさせるのである。平入ではあるが、どこか痩せた出雲大社本殿との雰囲気をもっている。山陰という土地柄か。

    

  本殿

                

               座玉

籠神社の旧地には、奥宮として今真名井神社が建つ。同じ神明造であるが、籠神社より若干古く天保3年(1831年)の建築である。

                 

                 真名井神社

(注)2011年9月撮影

江戸中期まで神明造を遡ることが出来た。室町時代と言われている「大日本国一宮記」には「一名籠守権現 住吉一体也」とあり祭神が江戸の頃と異なる。また境内には鎌倉時代の狛犬が一対、これが何を意味するか分からないが、祭神が異なり、神明造ではなかったのではないだろうか。もしかすると神明造は何も明治以降の流行ではなく、江戸中期ころからその萌芽があったのでは。

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仁和寺 - 贖罪?

2011-10-21 23:50:10 | 寺院

「悉成荒野」と「宣胤卿記」にある。応仁の乱後文明十二年(1480年)の仁和寺の姿である。

「続史愚抄」正保三年(1646年)に「入道一品覚深親王開旧地再造仁和寺伽藍己下」とあり、「徳川実紀」に「仁和寺門跡覚深法親王使もて物奉り搆造を謝せらる」とある。この覚深法親王は後陽成天皇の第一皇子、秀吉から皇位継承者に押されていた良仁親王である。しかし江戸幕府が天皇としたのは後水尾天皇であった。豊臣色の排除である。仁和寺本寺の旧地に、寛永二十年(1643年)慶長内裏の紫宸殿を移築し金堂にしたのを始め、その後も御所、清涼殿・御常御殿、からの移築また仁王門、五重塔など新築と仁和寺の伽藍が整備された。(福山敏男著作集「寺院建築の研究下」所収「仁和寺の創立」参照)

            

            金堂

    

   仁王門                  仁王門そして中門

現在の境内は嘗ての仁和寺本寺、中門の内、と円堂院、そして観音院+南御室(?)の旧地を占め広大さを誇る。覚深法親王がどんな伽藍配置を考えたのか分からないが、もしかすると応仁の乱前の、或いは平安期の姿を思い描いていたのかも知れない。中門は廻廊で、講堂(今の金堂)と結ばれ、新たに金堂をその中に置く。五重塔、経蔵、鐘楼はその外である。そう考えると、今は桜で賑わうが、寒々とした空地は埋まるのだが。

   

 五重塔            経蔵              鐘楼

仁王門、中門、五重塔、鐘楼は和様で復古調を醸し出しているのだが、何故か経蔵だけが禅宗様で建築されており、伽藍の中で異様でもある。また分からないのは観音堂である。和様なのだが側面に板唐戸に混ざって桟唐戸があり、統一されているとは言い難い。この二堂は新築なのであろうか。

              

              観音堂

「仁和寺諸堂記」には鎮守も記載されている。場所は分からない。現在は九所明神として中門の内にある。

              

              九所明神

(注)2011年3月撮影

 

 

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京都御所 - 政治と火災のはざま

2011-10-15 22:33:20 | 住宅等

1.京都御所ー慶長の面影

賀茂社の参拝施設を御所風と書いた。賀茂社の舞殿等々は寛永5-6年(1628-9年)の造営である。当時の京都御所には慶長造営の殿舎が建ち並んでいた。現在の殿舎は安政2年(1855年)の再建である。その間寛永、承応、寛文、延宝、宝永、そして寛政と、江戸時代には8度の造替があった。寛永以降はすべて焼失である(藤岡通夫「京都御所」、「徳川実紀」参照)。慶長内裏の遺構は寛永造営の際紫宸殿を移築した仁和寺金堂、清涼殿の古材を使った同じく仁和寺の御影堂に見られる。

慶長内裏は後水尾天皇の即位に合わせ、慶長16年(1611年)から慶長18年にかけて造営された。その前の天正内裏は豊臣秀吉造営である。この時期徳川家康は豊臣家滅亡に向け策を弄しており、慶長内裏完成後わずかで大坂冬の陣が起きている。この慶長内裏の造営は豊臣色の一掃と、江戸幕府の朝廷への介入といった狙いがあったのではなかろうか。

仁和寺金堂は現在瓦葺であるのに対し、御影堂は檜皮葺である。移築の際、檜皮葺を瓦葺に変更したのであろう。しかし瓦葺に白い小壁と餝金具のついた半蔀は似合わない。檜皮葺、蔀戸、白の小壁であれば、嘗ては内裏の建築であったことを彷彿させるのに充分であろう。賀茂社の場合蔀戸がなく柱だけの空間であり、檜皮葺の屋根の軽さとバランスを整える。仁和寺金堂の瓦葺は重く覆いかぶさっている。寛永期のバランス感覚なのであろうか。仏閣とは云え瓦にすることはなかったのでは。瓦葺を檜皮葺に戻し、高さはそのままの姿、さらに仁和寺金堂は正面7間だが9間にすれば、慶長期の紫宸殿であろうか。

            

         仁和寺金堂                                      仁和寺御影堂

(注)2011年3月撮影

2.京都御所 -寛政期の人々が思い描いた平安期の内裏

平安期の古制に則った寛政内裏は嘉永6年(1853年)に焼失。出火元は女院御所。安政内裏はこの規模拡大した寛政内裏を踏襲し安政2年(1855年)造営された。毛虫を焼き殺すのに27万両かかったとのことである。幕府の財政は一段と逼迫したのは云うまでもない。現在の京都御所はこの安政内裏である。江戸時代寛政期の人々が、特に朝廷側の意向であろうが、思い描いた平安時代の内裏である。幕府と朝廷間の力関係が変わってきていたのであろうか。しかし建てる大工・棟梁は違い、より技術的であったようである。バランスから屋根を大きくとり、その結果軒下には組物を入れたり、柱の下に禅宗様の礎盤を入れたりと100%和様とはいえない。若干ちぐはぐな結果に陥っているような気がする。不定愁訴という言葉が嘗て流行ったが、襖や杉戸に絵が描かれていなければ、京都御所は直線と四角形だけの味気ない、住めば不定愁訴が現実化しそうな世界である。白が余白となって全体の逃げ道となっていないためであろうか。

         

        紫宸殿

          

         御車寄北側の廊下          紫宸殿に向かう撞木廊下

撞木廊下は小御所の西側にあるが、昭和20年(1945年)5月「建物疎開」として処分された。しかし小御所が花火で焼失した時、紫宸殿が類焼を免れたのは、この「疎開」のお陰かも知れない。なお小御所は昭和33年(1958年)再建、廊下は昭和49年(1974年)復元。

    

  御常御殿

(注)2010年5月撮影

 3.蛤御門

 筋鉄門であることが防御用であったことを示している。蛤御門の変の時には、その役割を果たした。単に高麗門であったら、何処かの寺院の門としか見えなかったであろう。城門のように筋鉄門にしたのは、何から守ろうとしたのであろうか。宝永大火後の建築だとすれば、朝廷に恐れるモノはなかったのではと思うが。幕府に養われながらも、幕府の力の排除なのだろうか。

         

注)2010年5月撮影

 

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上賀茂神社・下鴨神社 ー 神話と世界遺産

2011-10-07 14:44:23 | 神社

上賀茂神社と下鴨神社を合わせて賀茂社と書くのが憚れるような両者の関係である。「続日本紀」延暦3年(784年)に「遣使修理賀茂下上二社」とあり、この頃までには二社に分かれていたのが知れるが、分立の時期、いきさつなどは分からない。平安期の朝廷は両社を差別してはいなかったようだが、延宝9年(1681年)に上賀茂神社が江戸幕府に提出した「賀茂註進雑記」には「社に詣る事も奉る幣物なども下社を先にせらるる例也伊勢の外宮より先にせらるるがごとしと云々」とあることから、上下二社の間には、本家はどちらかといった議論があったのではと邪推もできる。

1.上賀茂神社

初穂料を出せば、現在中門の中に入れる。直会殿を通り権殿の前に出る。手前には一間流造の杉尾社がある。西御供所は屋根の葺き替えであろうか、足場が組まれシートで覆われている。本殿は、全く権殿と同じと言うが、僅かに見えるにすぎない。権殿・本殿は檜皮葺流造であること、棟持柱がないこと、高欄に座玉がないこと以外は、神明造によく似ている。流造が神明造から派生したと見られても仕方のないことのように思われる。もっとも神殿の創建時期次第によっては、神明造と流造が同時発生ということも考えられないことはない。「鴨社造営記」(賀茂御祖神社編「下鴨神社と糺の森」による、原典は未見)によれば、天武天皇6年(677年)の造替遷宮より萱葺と板葺から檜皮葺に社殿を替えたというが。これをそのまま信じれば伊勢神宮正殿もその原型を考え直さなければならなくなる。

上賀茂神社の権殿・本殿の高縁には狛犬が置かれ、正面には影狛が描かれている。何時の頃からかは分からないが、下鴨神社には同じように狛犬が置かれているが、影狛はない。勿論伊勢神宮正殿にこのような装飾はない。この権殿・本殿は境内が次第に高くなっていく所に置かれているが、その昔の瑞垣で囲まれた祭祀場所、神域が維持されているのであろうか。この中門の内、或いは楼門の内は意外と狭い、或いは建てこんでいるといったほうがいいかも知れない。火事が多く、そのたびに本殿焼失していたのはそのためか。費用のかかる式年遷宮は必要なかったのではと思える。気になるのは権殿・本殿が南面せず、東に20度ほど振れていることである。祭祀者が神山を向く方向でもなく、御祖神社の方向ともズレている。この軸は「ならの小川」(御手洗川)を境にして変わる。細殿、土屋、楽屋、橋殿ー雨と陽射しを避けるだけの壁のない建物ーがそれである。行幸といえど橋殿までで「ならの小川」を越えることはなかったようだが、これらは本殿に向いているわけではなく、参拝のためだけであったのだろうか。「ならの小川」と二ノ鳥居に囲まれた白砂が敷かれた広場は、建物は江戸初期の建築だが、平安期のテントを固定した場所のようである。

                 

                 楼門

   

   橋殿                  土屋              橋殿

                  

                  外幣殿

(注)2011年9月撮影

ちょっと古い写真だが、1979年7月、勿論世界遺産に指定される前である。本殿の後ろの木々の背は今ほど高くなく、参拝者も少ない。まだ神話が身近に感じられる雰囲気があったのではなかろうか。荘園を失い、知行地を取り上げられ、且つ米軍に裏山を接収されてもなお守ったモノがあったようである。

              

             楼門から中門を望む     新宮神社参道

(注)1979年7月撮影

2.下鴨神社

上下二社の相違点は先ずは摂社・末社に重複する社がないことであろうか。祭神は親子でありながら、取り囲む神々が異なるのである。単純に役割分担なのであろうか、或いは本質的に性格が違うのであろうか。またこのことが境内の諸堂舎の配置にも関係するのであろうか。現在の社殿は上下二社ともに江戸時代の建築であり、室町期に作成されたといわれている絵図と比べると、上社はその社殿の内容・配置に大きな相違はないが、下社は室町期にあって江戸期にはない、また江戸期になって新たに増加した建物がある(前出「下鴨神社と糺の森」から)。

上下二社で社殿の配置の大きな違いは、御手洗川の扱いにある。上社では御手洗川を境に祭祀と参拝が明確に分かれているが、下社は御手洗川を楼門の中に、社殿がほぼ南北に軸を持つのに合わせて南北に流れを引き入れ、対称性が意図されているようである。上社は祭祀に、下社は参拝に主眼が置かれているように思える。上下二社の参拝用建築はいずれも御所風であり、変な技巧もなく単純で洗練されている。

    

  楼門から鳥居を望む          舞殿越しに神服殿    舞殿

              

             摂社三井神社              東本殿

(注)1979年7月撮影

 3.式年遷宮の費用

 「古事類苑」に造替費用のことを記録した「京都御役所向大概」が載っている。上社が宝永七年(1710年)から翌正徳元年(1711年)にかけ、下社は正徳元年から翌二年にかけ諸堂舎を修理・造替した時の費用である。幕府は各社一万両余、そして二社合わせ神宝等の修補・新調に七千四百両の費用を支出している。時の権力者が援助しなければ式年遷宮は実施できない。式年遷宮が修理のみとなっていく所以である。

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