一葉一楽

寺社百景

喜多院 ー 山王一実神道の残影

2012-08-27 08:18:39 | 寺院

釈迦を祀る多宝塔は位置を変え、薬師如来を祀る本地堂は現寛永寺に移り、山王一実神道の本地たる仏の軸はなく、天海の描いた世界は消えた。この仏の軸線は嘗ての星野山無量寿寺の中心軸であり、喜多院は、この軸の外側に山門があるように、無量寿寺の一支院にすぎなかった。とは云え、無量寿寺、山王神道に基づいた護法神たる山王日吉社(日枝神社)を勧請し、関東天台宗の本山であった。

                 

                        多宝塔

      

                    慈恵堂                     山門

                                    

               鐘楼門            慈眼堂

                                                

                                                             日枝神社

(注)2012年7月撮影

天海の影堂が古墳の上に建立され、山王一実神道の世界が完成する。仏の軸線に人、そして神の軸が直交する。正保ニ年(1645年)である。慈眼堂にしろ、東照宮にしろ、仏の水平面より高い。特に東照宮は直交点からは社殿は見えない。石段が蕃塀の役割を果たしているようである。どこまで計算されていたのか分からぬが。それにしても、多宝塔、本地堂の移築は、喜多院の伽藍配置の意味を毀すものであると云わざるをえない。

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仙波東照宮 ー 山王一実神道の世界

2012-08-13 11:05:39 | 神社

寛永10年(1633年)高さ5間に土を盛り創建。しかし寛永15年(1638年)1月28日「川越城下失火し、仙波御宮?坊中ことごとく焼失せし注進あり」と「徳川実紀」にある。再建は寛永17年(1640年)、この時の棟札写が「新編武蔵国風土記稿」に載っている。奉行は堀田加賀守正盛、大工は木原木工允義久、導師は天海。棟札にある御社一宇とは、本殿、唐門、瑞垣のこと、今ある拝幣殿は江戸城二の丸東照宮から明暦2年(1656年)に移築したと云われている。この拝幣殿、木鼻・手挟み・蟇股に彩色が見られるだけで、本殿とは対照的である。「東京市史稿 皇城編」に承応三年(1654年)、家綱の時であるが、紅葉山東照社に「二之丸東照社ノ併合」と記載され、更に「社殿ハ十一月十四日庚子之ヲ武州川越ノ仙波ニ遷ス」とある。拝殿前に置かれている寛永14年と刻銘がある手水鉢が、それを裏付けているかのように見える。しかし高台に本殿のみの時を考えると、拝殿・幣殿の位置が予定されていたかのような、本殿の前は大きすぎる何もないスペースなのである。また岩佐又兵衛「三十六歌仙」の一部の額に寛永17年(1640年)とあるとのこと。「修理報告書」には同時造営としているそうだが、未だ確認していない。また「仙波御建立記録」によれば、橡葺、黒漆塗(内部であれば現在と変わらず)と今と異なるが、同時期建立を示唆している。気になるのは石灯籠である。仙波東照宮には26基残されているが、一番古い灯籠でも明暦2年(1656年)であり、寛永10年、或いは同17年のものはない。「徳川実紀」明暦二年七月三日条に「松平伊豆守信綱は川越仙波正遷宮によて。代参の暇給ひ」とある。拝殿・幣殿の完成には時間がかかったのではと思わせる。

                 

                    随神門

    

                    拝殿・幣殿

寛永10年造営の東照宮は、御社一宇、本殿のみと推定される。山王一実神道にとって、権現造である必要なかったということである。権現造が吉田神道の大明神造が発展したものと考えれば当然のことである。本地堂と高みに置いた東向きの本殿があれば、東方薬師瑠璃光如来を本地とし、東照大権現が垂迹とする山王一実神道の世界を表現出来るのであろう。

               

                     本殿

(注)2012年7月撮影

 

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