田無神社は田無村の鎮守であった。当時の名主は下田半兵衛富宅で、天保四ー七年(1833-1836年)の飢饉後、屋敷内に稗倉を天保九年(1838年)を設け,飢饉への対応策を講じた。最後は村の鎮守へのお礼、本殿の新築である。
文政13年(1830年)完成の「新編武蔵風土記稿」で「小社にて上屋設ふく、二間四方南向」と書かれた本殿ではない。現在覆屋の中にある本殿は安政6年(1859年)の竣工である。大工棟梁は鈴木内匠(この多摩地区では瑞穂町の福正寺観音堂、天保12年(1841年)がある)、彫工は当時江戸で名を馳せた嶋村源蔵俊表である。本堂背面に「東都神田川 嶋村」と刻銘がある。この本殿、建築というよりは彫刻というのがふさわしい。少なくても嶋村源蔵はそう考えたのであろう。しかし彫刻で建物を埋めるのは、彫工だけにその原因を求めるわけにはいかない。願主・施主側に受け入れる素地があったのであろう。下田半兵衛も豪華に彫刻で飾ることが、お礼にはふさわしいと思っていたのであろう。拝殿は地元の大工高橋金左衛門で明治八年(1875年)竣工である。龍神を祀る神社らしく、龍の彫刻を取り付ける。彫刻は地元とは思えない。
拝殿
(注)2012年8月撮影