一葉一楽

寺社百景

田無神社 ー 飢饉からの再生

2013-04-21 22:00:22 | 神社

田無神社は田無村の鎮守であった。当時の名主は下田半兵衛富宅で、天保四ー七年(1833-1836年)の飢饉後、屋敷内に稗倉を天保九年(1838年)を設け,飢饉への対応策を講じた。最後は村の鎮守へのお礼、本殿の新築である。

                   

                

文政13年(1830年)完成の「新編武蔵風土記稿」で「小社にて上屋設ふく、二間四方南向」と書かれた本殿ではない。現在覆屋の中にある本殿は安政6年(1859年)の竣工である。大工棟梁は鈴木内匠(この多摩地区では瑞穂町の福正寺観音堂、天保12年(1841年)がある)、彫工は当時江戸で名を馳せた嶋村源蔵俊表である。本堂背面に「東都神田川 嶋村」と刻銘がある。この本殿、建築というよりは彫刻というのがふさわしい。少なくても嶋村源蔵はそう考えたのであろう。しかし彫刻で建物を埋めるのは、彫工だけにその原因を求めるわけにはいかない。願主・施主側に受け入れる素地があったのであろう。下田半兵衛も豪華に彫刻で飾ることが、お礼にはふさわしいと思っていたのであろう。拝殿は地元の大工高橋金左衛門で明治八年(1875年)竣工である。龍神を祀る神社らしく、龍の彫刻を取り付ける。彫刻は地元とは思えない。

        

                   

                       拝殿

(注)2012年8月撮影

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堀之内妙法寺 ー 祖師帰依の変容

2013-04-10 09:29:55 | 寺院

妙法寺に「厄除の祖師像」を齎したのは一人の破戒僧である。この時は「厄除け」の霊験はなかったようで、像は妙法寺に移る。文政六年(1823年)刊の「武蔵名勝図会」によれば元禄十一年(1698年)のことである。明和六年(1769年)に妙法寺伽藍は焼失する。像は焼失を免れ、「厄除の祖師像」として復活したのであろう。「武蔵名勝図会」に「この祖師の利益のことは近世霊験の奇特ありて、参詣するもの凡そ明和の頃より始まれり」とある。「その前までは堂宇も微々にして、庵室の如き小堂の本尊にてありしが、・・・」、文化九年(1812年)に祖師堂が、天明七年(1787年)に現在の仁王門が建立される。「堂塔坊舎も信心感得の輩が施入して、寄附の営建巍々として美をつくし甍をならべたり」とある。庶民にとっては、法華経或いは日蓮への帰依よりは、信仰よりは、厄除けといった現世利益への祈願なのである。

               

                     仁王門

            

               長屋門            鉄門

祖師崇拝の強い宗派の例にもれず、妙法寺でも本堂の簡素さと比べ、祖師堂は5間7間と奥行きがあり大きく、餝金具・彫刻等々の装飾が目立つ。入母屋造で正面は唐破風の向拝、背面の、祖師像のある厨子は入母屋破風となっている。大勢の参拝者と祖師が同じ空間に居る。日蓮は「上行菩薩」とは自分のことであると自覚していたようなので(中村元「日本人の思惟方法」)、菩薩との同一空間、密着した状況となる、また法華経の弘布には最適の内部空間を具現化しているともいえる。

            

                      祖師堂

「参詣群衆すること浅草の観世音に並べり」と「武蔵名勝図会」にあり、参拝ルートである青梅街道沿いの鳴子・淀橋・中野あたりの民家は軒並み水茶屋・料理茶屋・酒肴の肆店に変じたとある。江戸の住人にとっては、日帰りの行楽地であったのかも知れない。勿論信心はあったろうが。

(注)2008年4月撮影

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