一葉一楽

寺社百景

東大寺 その2 ー 大きさへの挑戦

2013-05-31 09:54:32 | 寺院

東大寺の鎌倉期再興は当時必ずしも評判の良くない入宋僧に始まり、これまた評判の芳しくない入宋僧に引き継がれる。鎌倉時代初期、武家政権と公家政権が並立していた時期、公家政権の一人からの意見であるが(慈円「愚管抄」)。しかし勧進僧の重源を造東大寺大勧進職に任命せざるを得、その公家政権であった。注目すべきは既存勢力以外から再興を担う僧が輩出したということであろうか。平氏により盛んとなった宋との交易も忘れてはならない。激動の社会に、演じ古い時代を切って捨てる人々、そして一方で無常感あるいは無力感をかこつ傍観者達という構図であろうか。

願望の大きさを、そのまま大きさに表した大仏像を生かし続けるには、創建当時の大きさを維持し続けることが必要であった。創建当時と異なるのは朝廷の求心力である。勧進僧に頼らずにはいられないのである。問題は造営資金である。合理性を追求する所以である。入宋僧であることは必要条件であったのであろう。南大門を池田満寿夫は「古陶を見るように人為を超越した美しさを保っている」という(不滅の建築5「東大寺南大門」毎日新聞 1988年)。古色の美を云っているのであろうか、高さを表現するための、無駄のなさ、遊びのない合理性を陶器に見立てているのであろうか。もっとも直近で南大門が丹塗されたのは、明治十二年(1879年)である(「東大寺南大門史及昭和修理要録」文生書院 2005年1月、原文は1930年4月)。

             

                

                    南大門

治承四年(1180年)十二月二十八日、大仏殿以下焼失したが、「東大寺続要録」に「所残法花堂二月堂同食堂三昧堂僧正堂鐘堂唐禅堂上司倉下司倉正院国分門中御門砧�仗門南院門等也」とあり、鐘楼は被災していない。南大門の場合は焼失したともしないとも記述がない。どちらも再建の経緯が不明である。鐘楼は26.4トンの重さのためか、地震で梵鐘が落ちたり、大風で鐘楼が倒れたことがあったようだが、鎌倉再建の鐘楼は梵鐘の重さに耐えそうな構造体に、反りの強い屋根が載る。延享二年(1745年)の修復で高くなった屋根を、昭和の解体修理で鎌倉再建時の姿の戻したそうだが、意匠的にはどちらがいいとも云えぬと思われるほど、梵鐘を釣る架構部の印象が強い。まさに合理性の追求そのものである。(参照:「奈良六大寺大観 東大寺」岩波書店 1991年)

                                  

                          

                          

                                            鐘楼

(注)2013年1月撮影

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大寺 その1 ー 大きさへの執着

2013-05-22 21:01:26 | 寺院

「徳川実紀」慶長十九年(1614年)八月八日の条に「南都上生院。大仏修治の事こふままにゆるされた。大工中井大和守正次に修治の事を命ぜらる」とあり、さらに九月十三日「上性院。清涼院。南都の大仏修理のため。諸国勧化のことゆるされ。その上にも費用不足せば。官財を加へたまふべしと仰出さる。奈良奉行中坊左近秀政へもその事仰下さる」とある。しかしその後の大坂冬の陣のためか、大仏修復、また大仏殿再建はなされていない。延宝九年(1681年)刊行の「和州旧跡幽考」でも、「中門は礎のみ。・・・・・。(山田道安修復による)仏は猶もとのごとく成就し給ひつれども大殿は造営あらずしていしずへのみのこれり永禄十年より凡百十三年」。現在の大仏の修理が完了するのは元禄四年(1691年)、翌五年に開眼供養が行われた。大仏殿再建が始まるのは元禄七年(1694年)である。実際には、二年後の元禄九年以降であろう。「徳川実紀」元禄九年四月十日の条に内田守政、妻木頼方(頼保)両名が奈良奉行に任命されたとあり、二人体制となって大仏殿再建を監督したようである。特に妻木頼保は東大寺側が従前の大きさを主張するのを、現在の七間幅に説得する役目があったようである。結局中門、東西楽門、廻廊が完成したのは、造営資金の枯渇もあり、元文三年(1738年)頃となったようである。(参考 山本栄吾「東大寺大仏殿院現構の造営時期」日本建築学会研究報告 1959,5)

                

                      

                        

現在の大仏殿にはモデルがあったのではなかろうか。重源再興の大仏殿ではなく、、方広寺大仏殿であったのではと思っている。東大寺側の固執した大きさとは、方広寺大仏殿の大きさではなかったのはないだろうか。唐破風の向拝のある現在の大仏殿、「方広寺大仏殿諸建物?三十三間堂建地割図」に載る大仏殿と酷似しているからである。また両者とも中井家の関与が窺えるからでもある。

          

                  

(注)2012年10月撮影

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深大寺 ー 「大師通り」の行き着く所

2013-05-14 14:07:58 | 寺院

「大師通り」(深大寺道)は武蔵野台地を縦断し、湧水の点在する国分寺崖線に至る。中世深大寺城への上杉氏の軍道であったようだが、「大師通り」と元三大師詣の道となって生き残った。元三大師、良源慈恵大師は直接には深大寺と関係はない。正暦二年(991年)に深大寺にもたらされたとする元三大師自刻の像が信仰を集めた。正長年間(1428年)火事の際焼け残り、これが厄除の霊験ありとされたのであろうか。「武江年表」明和二年(1765年)の条に「七月朔日より回向院にて武州府中深大寺厄除元三大師開帳」と勧進の目玉となっている。慶応元年(1865年)焼失前の大師堂再建のための勧進であろう。天保三年(1832年)に造られた大師堂内陣の厨子には部材の寄進者の陰刻があり、信仰と経済が町人層に依っていたようである。文政三年(1820年)脱稿の「武蔵名勝図会」には「毎月三日、十八日は大師縁日にて、参詣群衆す。正月、五、九月の右両日は市町の如し」とある。

            

                       山門

時代は遡るが、茅葺の山門は元禄八年(1695年)の再建、その棟札には「地形大門普請寄進人足一千余人」とあり、多分近郷近在の村民総出による建立ではなかったのではなかろうか。深大寺に支配階級の名は出てこない。

                    

                     釈迦如来倚像

白鳳仏 釈迦如来倚像は江戸時代の書誌には出てこない。明治42年(1909年)になって大師堂本尊の元三大師像壇下から発見されたという。もっとも天保十二年(1841年)の「分限帳」に本堂に釈迦牟尼仏の銅像があったとされる。これ以前は全く不明である。ただこのあたり古代狛江郷であったことは頭の中に入れておかなければならない。本堂は慶応元年(1865年)に焼失したのち、大正14年(1925年)まで再建されなかった。焼失後大師堂に、目の届かぬ所に置かれていた。深大寺は元三大師信仰が主であったということである。これは今も同じである。                           (参照:「深大寺学術総合調査報告書」深大寺 1987年11月)

(注)2013年4月撮影

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高幡不動 ー 江戸時代の否定

2013-05-02 10:44:44 | 寺院

伽藍に二つの軸線があるのは決して珍しいことではない。高幡山金剛寺では、総門、山門を通り、大日堂に辿りつく壇林としての軸線であり、今一つは仁王門から不動堂に至る不動信仰としての軸線である。本尊は大日如来と不動明王であるが、地元の武士の崇敬を集め鎌倉以降は不動堂が中心となった。

    

                        仁王門

「新編武蔵風土記稿」に応永二十ニ年(1415年)の勧進帳の写しを載せる。「岩殿山御合戦、河越没落、小山御退治、若犬滅亡、奥州御発向毎度流汗、上将武略勇猛之護持、坂東護衛無雙之効験」とある。昭和三十三年(1958年)解体修理完了の現不動堂は、天文十九年(1550年)当時、武士の崇敬を集めていたころの、形に復原され、庶民信仰の対象であった頃、江戸時代に変更された部分は取り除かれた。「江戸名所図会」の挿絵、元文三年(1738年)から寛保二年(1742年)にかけて修復された姿とは大きく変わる。もっとも江戸の風情が無くなったのは明治二十九年(1896年)の修復時のことのようである。仁王門は「武蔵名勝図会」の画、重層の楼門へ改築である。(「重要文化財金剛寺不動堂仁王門修理工事報告書」1960年6月)

          

                   

                         不動堂

「武蔵名勝図会」に「山上より引きおろして再建せし時のままにて、柱はみな松の丸太造りなり。星霜久しきことゆえ、大半はその後造営を加えし時に槻の丸太造りに入れ替えたれど、いまに古代の松の丸柱に根継ぎして、往古のままを多く残せり」とはいうものの、天文・元文・明治・昭和と修理にも、材料だけでなく、その時代が色濃く反映されるようである。

                   

                        五部権現社

(注)2013年4月撮影

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする