一葉一楽

寺社百景

常楽寺 ー 里に下りた山寺

2015-04-30 10:24:33 | 寺院
本堂・三重塔は延文五年(1360)全山焼失後の再建されて、今に残る。この時の「勧進帳」によれば、阿星寺焼亡の折、その本尊が常楽寺に飛んで来て本尊となったという。「天台小止観」にいう第一「深山絶人之処」から第二「頭陀蘭若之処」に移ったということか。もっとも阿星寺跡は同定されていない。
本堂はまもなくして、三重塔は応永七年(1400)、そして仁王門が宝徳四年(1452)に再建。織田信長の焼打ちにどんな被害にあったのかは分からないが、少なくともこれら三棟は残った。しかし仁王門は秀吉により木幡山伏見城に持ち去られ、更に家康により三井寺に移築されている。ただ常楽寺は比叡山の末寺である。

三井寺仁王門

(注)2005年2月撮影

本堂は再建後まもなく軒を高くするなど改造を受けている。また明治修理まで現在の檜皮葺ではなく本瓦葺であったという。もっとももとは檜皮か杮葺で、瓦をその上に並べたものであったようだが。改造目的は「国宝常楽寺本堂及塔婆維持修理工事報告」(滋賀県国宝修理出張所 1941)によればその理由が見つからないという。米蔵内壁に「モミ六石 庚正二年(1456)」といった墨書があるそうだが、この頃の近江を考えると、土一揆が思いつく。改造も、また本堂内でのモミ・米の貯蔵と土一揆対策の可能性はないだろうか。


    本堂

  三重塔

(注)2014年12月撮影

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善水寺 ー 焼打ち

2015-04-17 10:19:01 | 寺院
「元亀二年(1571)信長の兵火にかかって、烏有と成。本堂は幸にまぬかれたり」と「近江與地志略」(寒川辰清編 享保八年(1723))にある。本堂、六所権現の他に、ここには記されていないが、塔、仁王門が残ったと云う。仁王門は昭和二十八年(1953)に大雨で流失して、仁王像は本堂外陣に残っているものの、今はない。塔は湖東三山或いは湖南三山といった天台宗寺院としてみると、あってもおかしくないのだが。本堂だけでなく仁王門、塔が残ったということは、信長の焼打ちは全山焼打ちを目的としたということではないのだろう。決して「山間にありしを以て」(清水新兵衛編「新撰近江名所図会」文泉社 1909)とは思えない。僧坊が目当てだったということではなかろうか。



本堂は延文五年(1360)に焼失後、貞治五年(1366)には再建された。南面し、前庭は狭い。向拝を付加するのが流行した後世になっても、取り付けず、正面の石階を改修するに留まっている(滋賀県教育委員会編「国宝善水寺本堂修理工事報告書」1976)。正面性に留意することはないが、山岳寺院の本堂としての求心性を保っているように見える。寺号の由来となった湧水も、また不動明王が刻まれた岩もある。焼打ち前は修行にふさわしい場所であり、世間からは隔絶した世界を作っていたのでは、即ち修行僧のための寺院であった。しかし廃絶しなかったのは「山麓の農民是を守り、或は諸家の僧徒寓居す」(「近江與地志略」)とあるように、修行場からの転換故ではなかったのではないだろうか。

   

(注)2014年12月撮影
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乙宝寺 ー 舎利伝説

2015-04-08 12:35:34 | 寺院
貞和三年(1346)の「越後国乙宝寺縁起」に「此寺草創より以降鳳暦ひさしくつもり手4四百二十八年。・・・。其間堂舎塔廟および千僧坊やうやく荒廃して。今わづかにのこるところは金堂ニ王堂ばかりなり。干時高倉院御宇安元二年丙申(1176)。」とある。寺伝ではそれより十二年早い天平八年となっているが、「縁起」によれば天平二十年(748)創建となる。「縁起」は安元二年砂地から塔の水煙、宝鐸と同時に、心礎・舎利が掘り出されたことを書いている。創建当時は塔があったのであろう。今の三重塔は願主村上忠勝、棟梁は京都の大工小島近江守藤原忠正で慶長十九年(1616)の起工である。完成は元和六年(1620)で、忠勝は完成を配流地丹波篠山で聞いたことになる。
この「舎利」、後白河院の手許に移ったあと、乙宝寺に飛びかえったという。この話は京で長く伝えられたのであろう。「縁起」の詞書は「正二位行権中納言兼春宮大夫源朝臣」(村上源氏の久我通嗣か?)である。




砂地の上に、境内は江戸時代と変わらない風景を見せている。村の鎮守(今の八所神社か?)やら、観音堂、地蔵堂、六角堂、弁天堂、金毘羅堂といった小堂が、神仏混淆の点在する。仁王門は延享二年(1745)、西条(現胎内市西条町)の丹呉平兵衛の寄進による再建、六角堂も延享年間と云われている。この頃乙宝寺伽藍が、地元による整備が行われたようである。城氏、黒川氏、村上氏と、この地の支配者の庇護が、財力の主体が、民間へと移ったことが小堂建立につながったのであろう(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財乙宝寺三重塔保存修理(屋根葺替)工事報告書」乙宝寺 2000)。

 弁天堂
 六角堂
 仁王門

(注)2014年6月撮影
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