本堂・三重塔は延文五年(1360)全山焼失後の再建されて、今に残る。この時の「勧進帳」によれば、阿星寺焼亡の折、その本尊が常楽寺に飛んで来て本尊となったという。「天台小止観」にいう第一「深山絶人之処」から第二「頭陀蘭若之処」に移ったということか。もっとも阿星寺跡は同定されていない。
本堂はまもなくして、三重塔は応永七年(1400)、そして仁王門が宝徳四年(1452)に再建。織田信長の焼打ちにどんな被害にあったのかは分からないが、少なくともこれら三棟は残った。しかし仁王門は秀吉により木幡山伏見城に持ち去られ、更に家康により三井寺に移築されている。ただ常楽寺は比叡山の末寺である。
三井寺仁王門
(注)2005年2月撮影
本堂は再建後まもなく軒を高くするなど改造を受けている。また明治修理まで現在の檜皮葺ではなく本瓦葺であったという。もっとももとは檜皮か杮葺で、瓦をその上に並べたものであったようだが。改造目的は「国宝常楽寺本堂及塔婆維持修理工事報告」(滋賀県国宝修理出張所 1941)によればその理由が見つからないという。米蔵内壁に「モミ六石 庚正二年(1456)」といった墨書があるそうだが、この頃の近江を考えると、土一揆が思いつく。改造も、また本堂内でのモミ・米の貯蔵と土一揆対策の可能性はないだろうか。
本堂
三重塔
(注)2014年12月撮影
本堂はまもなくして、三重塔は応永七年(1400)、そして仁王門が宝徳四年(1452)に再建。織田信長の焼打ちにどんな被害にあったのかは分からないが、少なくともこれら三棟は残った。しかし仁王門は秀吉により木幡山伏見城に持ち去られ、更に家康により三井寺に移築されている。ただ常楽寺は比叡山の末寺である。
三井寺仁王門
(注)2005年2月撮影
本堂は再建後まもなく軒を高くするなど改造を受けている。また明治修理まで現在の檜皮葺ではなく本瓦葺であったという。もっとももとは檜皮か杮葺で、瓦をその上に並べたものであったようだが。改造目的は「国宝常楽寺本堂及塔婆維持修理工事報告」(滋賀県国宝修理出張所 1941)によればその理由が見つからないという。米蔵内壁に「モミ六石 庚正二年(1456)」といった墨書があるそうだが、この頃の近江を考えると、土一揆が思いつく。改造も、また本堂内でのモミ・米の貯蔵と土一揆対策の可能性はないだろうか。
本堂
三重塔
(注)2014年12月撮影