鹿島神宮本殿が北向きなのに対し、香取神宮本殿は南を向く。また共に参道の延長線上にはない。香取神宮の場合には石上神宮と同様、参道は楼門横に、正面を避ける形をとる。
楼門
祈禱殿(旧拝殿)
本殿は20年毎の造替を繰り返してきたが、元徳二年(1330)までで、この間の正神殿は正面五間でなかったかと推測されている(福山敏男「日本建築史研究」墨水書房 1968)。仮殿は正面三間で。これがその後の本殿の規模となる。
本殿
(注)2015年3月撮影
造替の主体は、坂東平氏である葛西氏と千葉氏が交互に担当していた。千葉氏は下総国の守護として、葛西氏は下総北部を所領とする御家人としてであろう。ただ葛西氏は最後の式年造替といわれる元徳二年を最後に名前を残していない。その主流が奥州に本拠地を移したことによるのであろう。両氏ともに、鎌倉幕府開創後の新興氏族であり、宣旨を受けて香取社の造替は衿持であった。この意味でまだ律令国家の遺制は残っていたと云ってもよい。
楼門
祈禱殿(旧拝殿)
本殿は20年毎の造替を繰り返してきたが、元徳二年(1330)までで、この間の正神殿は正面五間でなかったかと推測されている(福山敏男「日本建築史研究」墨水書房 1968)。仮殿は正面三間で。これがその後の本殿の規模となる。
本殿
(注)2015年3月撮影
造替の主体は、坂東平氏である葛西氏と千葉氏が交互に担当していた。千葉氏は下総国の守護として、葛西氏は下総北部を所領とする御家人としてであろう。ただ葛西氏は最後の式年造替といわれる元徳二年を最後に名前を残していない。その主流が奥州に本拠地を移したことによるのであろう。両氏ともに、鎌倉幕府開創後の新興氏族であり、宣旨を受けて香取社の造替は衿持であった。この意味でまだ律令国家の遺制は残っていたと云ってもよい。