一葉一楽

寺社百景

香取神宮 ー 東国の式年造替

2015-07-29 15:38:40 | 神社
鹿島神宮本殿が北向きなのに対し、香取神宮本殿は南を向く。また共に参道の延長線上にはない。香取神宮の場合には石上神宮と同様、参道は楼門横に、正面を避ける形をとる。


楼門

祈禱殿(旧拝殿)

本殿は20年毎の造替を繰り返してきたが、元徳二年(1330)までで、この間の正神殿は正面五間でなかったかと推測されている(福山敏男「日本建築史研究」墨水書房 1968)。仮殿は正面三間で。これがその後の本殿の規模となる。

本殿

(注)2015年3月撮影

造替の主体は、坂東平氏である葛西氏と千葉氏が交互に担当していた。千葉氏は下総国の守護として、葛西氏は下総北部を所領とする御家人としてであろう。ただ葛西氏は最後の式年造替といわれる元徳二年を最後に名前を残していない。その主流が奥州に本拠地を移したことによるのであろう。両氏ともに、鎌倉幕府開創後の新興氏族であり、宣旨を受けて香取社の造替は衿持であった。この意味でまだ律令国家の遺制は残っていたと云ってもよい。
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鹿島神宮 ー 軸線を避けた本殿

2015-07-06 14:05:24 | 神社
現在本殿と向かい合う仮殿は、元和四年(1618)の建立当初は楼門を入った正面にあった。現在地に移築されたのは昭和二十六年(1951)であり、軸線上にあったのは戦前まで仮殿であった(田中淡著「茨城県指定文化財鹿島神宮仮殿修理工事報告書」鹿島神宮社務所 1975)。

  楼門

 仮殿

本殿は軸線に直交するように北面し、軸線は森深く奥宮まで続く。本殿また奥宮が北面するのは、祭神が軍神、蝦夷征討が背景にあると云われているが、軸線を避ける理由にはならない。神に対する畏避なのか畏敬なのか、自然崇拝と異なる、当初よりの人格神への崇拝の在り方なのかもしれない。


   本殿

   奥宮

(注)2015年3月撮影

奥宮は元和五年(1619)建立の現本殿の前の、徳川家康による慶長九年(1604)造替、京大工による本殿である。ともに三間社流造であるが、現本殿は外陣一間を付け加えており、平面が異なる。更に、木原方幕府御大工鈴木長次としては始めての石の間造であろうか、石の間を介して拝幣殿と連結する。同形を維持するといった造替ではなかった(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財鹿島神宮本殿・石の間保存修理工事報告書」鹿島神宮 1989)。
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