一葉一楽

寺社百景

岩木山神社 ー 本殿と本堂の共存

2015-08-19 10:01:45 | 神社
岩木山は慶長五年(1600)の噴火では、泥流が発生等々、江戸時代に入ってからも数度の水蒸気噴火があった(気象庁「日本活火山総覧」第四版 2013)。火山ということもあり、畏怖の対象、「カミ」として信仰されていたようである。仏教が入り込み、本地垂迹として堂舎を構える形態となったが、天正十七年(1590)堂舎悉く焼亡(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財岩木山神社本殿他四棟修理工事報告書」重要文化財岩木山神社本殿他四棟修理委員会 1978、なおこの修理工事報告書では岩木山噴火による焼亡とあるが、年が気象庁データと合わない、報告書の依拠した元禄14年(1701)の「岩木山百沢寺光明院縁起」では「依火災下居宮大堂以下百沢寺幷十坊共悉焼亡」と岩木山噴火には言及していない)。

楼門

慶長六年(1601)津軽為信が下居宮を再建(現本殿の前身建物? 四代信政が元禄七年(1694)に再建しており、為信云々には疑問が残る)、慶長八年に大堂を建立する(三代信義の寛永17年(1640)完成)。現岩木山神社はここから始まる。現楼門、山門は二代信枚の寛永五年(1628)、また本殿廻りの奥門・瑞垣、また大堂(本堂)前の中門は四代信政の時に完成する。二の鳥居は三代信義が寛永十七年に建立、すぐに四代信政が貞享四年(1687)に修理している。境内の完成は排仏を根底にもつ吉川神道を信奉した信政によるということである。

  中門

 拝殿(旧大堂)

 本殿

(注)2015年6月撮影

高照神社同様、主要堂舎は岩木山に向かって一直線上に配置されている。神仏分離令以前、鳥居から始まり、寺院建築の山門そして本堂(大堂)、そして本殿である。神社建築の間に挟まれ、寺院建築が直列を形成し、別当寺である百沢寺が中心となっているのである。為信再建時、大堂には為信寄進の本尊が安置され、まさに本地垂迹が表現されていた。しかし建物そのものには寺院かもしれないが、配置に神社としての雰囲気を、反本地垂迹、即ち神本仏迹となっている、醸し出しているのは、四代信政の意図なのであろうか。

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高照神社 ー 天人合一の社

2015-08-05 16:32:34 | 神社
鳥居から随神門・拝幣殿・軒廊・中門・本殿、そして廟所と一直線に並ぶ。本殿に祀るのは津軽四代藩主津軽信政と氏神春日四神である。天人合一の原理に基づいた配置と云われている。吉川惟足の「君道伝」、「誠は一なり。一を以て天地を貫き、一を以て上下を貫くなり」ということなのか。同じ吉川神道に依拠する神社に、保科正之を祀る会津土津神社がある。文化六年(1809)完成の「新編会津風土記」にある挿絵を見ると、社殿、廟所は南北に一直線となっている。高照神社は東西である。方角には共通性がない。しかし、高照ということは、弘前の旧名高岡を臨むということを意味するのだと聞いた。廟所・社殿・弘前城下とが、すなわち君・神々・臣が一直線上にあることを意図したのであろうか。因みに土津神社の南とは江戸か。

 随神門

  拝殿

 軒廊

   

(注)2015年6月撮影

本殿は五代信寿による造営である。正徳元年(1711)五月に地割、十一月には本殿完成、二年七月に遷宮と極めて短時間の造営であった。本殿は朱色に塗るだけで、彫刻等の装飾はない。土津神社とは対照的であったようだ。七代信寧の宝暦五年「高岡宮修造竝ニ拝殿神楽殿等ヲ新ニ造営ス」(「津軽旧記類」)、更に文化九年(1810)九代寧親が随神門を造営と、土津神社と同様の体裁が整うまでには時間がかかっている。津軽藩財政が逼迫していたというから、信政治世への願望が社殿を整えていったというのであろう。因みに吉川神道の門下となったのは、信政以降は十代信順しかいない。

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