一葉一楽

寺社百景

飯野八幡宮 ー 神と仏の間

2015-09-25 13:00:59 | 神社
好島庄は鎌倉幕府が、その関東御領を石清水八幡宮に寄進して成立、当八幡宮の別当には地頭岩城清隆の嫡子師隆がなり、供僧も同時に置いた。元久三年(1206)に社殿完成、建永元年(1206)北条政子を本願とし遷宮している。承元三年(1209)には経蔵も完成している。当初より寺が神社を管理経営する形であった。とは云え岩城氏の本領安堵の意図が見える。
現在の社殿は、物見岡から現在地に移った後、慶長十九年(1614)に焼失、翌元和元年(1615)から再建された。


楼門

 神楽殿

  拝幣殿

    本殿

(注)2014年3月撮影

文政九年(1826)鍋田三善編の「磐城志」は慶長期と推定される境内図と文政当時の境内図を載せる。ともに、土手で社域と寺域は明確に区別されていた。慶長期には、本殿横に本地仏である阿弥陀如来を祀る本地堂が、寺域には釈迦塔と呼ぶ三重塔が描かれている。しかし焼失後は、釈迦塔は再建されず、阿弥陀堂が建立された。社域はかなり仏教色が払拭され、神社と寺院が並列する形となった。鳥居氏から内藤氏に領主が替わった頃、寛永四年(1627)である。現在見る権現造に改造されたのは、拝・幣殿が建設された延宝二年(1674)で、権現造としては早い時期といえる。幕府が関与していたのであろうか。(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財飯野八幡宮本殿保存修理工事報告書」1996年9月)
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飯香岡八幡宮 ー 荘園の経営

2015-09-06 16:42:56 | 神社
飯香岡八幡宮の名前が史料の上での初見は、元禄四年(1691)の「上麻惣社飯香岡八幡宮由緒本記」のようである。現在の権現造となった年である。以前は、寛文八年(1668)の縁起では「市東荘八幡宮」である(「重要文化財飯香岡八幡宮本殿修理工事報告書」修理委員会編 1968)。また八幡宮に伝わる江戸幕府の朱印状では、市原郡「八幡宮」である(飯香岡八幡宮 Facebookから)。少なくとも天正十九年(1591)家康の朱印状以降は市原郡の「八幡宮」といえば、飯香岡八幡宮を指したようである。
保元三年(1158)石清水八幡宮の「諸国庄園官符」に「上総国 市原別宮」とあるが、この別宮が飯香岡八幡宮の前身社ではないかと云われている(桜井敦史「市原八幡宮と中世八幡の都市形成」市原市文化財センター研究紀要V所収 2005)。保元三年の時点で別宮は十八ケ国に三十五ケ所あったが、荘園の経営拠点であった。当然そこには八幡神が勧請されてくる。史料に出てくる市原八幡宮は別宮の鎌倉・室町時代の姿であろうが、残る史料はその所領に関する内容である。何処の寺社も同じだが、維持するための経済基盤を確保することが、最大の関心事であったのであろう。権力に依存するか、人々の信奉に頼むか、であろうか。


 拝殿

    本殿

(注)2015年5月撮影

家康の朱印状が出された前年、天正十八年(1590)の絵図が残っているが、社殿は海に面し、海中にも鳥居があった風景が描かれている(飯香岡八幡宮Facebookから)。寛文八年(1668)の「縁起」に書かれた伝承と符号する。ただ祭神が船玉命ではなく、八幡神であることから推測すると、八幡神は海を渡ってきたのかもしれない。陸路であれば、国衙のあったと推定される市原台地にあったと考えるのが自然だと思うが。
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