曹洞宗の奥州における教線拡大の拠点となったのが、第三の本山であった正法寺である。土着の豪族を開基とする。貞和四年(1348)の開山以降、江戸時代に入って寛政十一年(1799)の一山焼失まで、四度の火災にあってその都度主要伽藍を焼失しているが、江戸期以前は寺家中心に復興、当然葛西氏勢力下の地方豪族の庇護があったのであろうが、本寺の寺格を維持してきた。伽藍は山の斜面に、方丈・仏殿・山門を軸線上に並べ、その両側に庫裏、そして衆寮・禅堂を配置し、廻廊でこれら堂舎を結ぶ永平寺と似た構成であったようである(陸中黒石正法寺誌」正法寺 1920年)。
惣門
現本堂は桁行九間・梁間七間、二百三十三坪と大人数にも耐えうる大建築である。焼失した仏殿、その礎石を残すが、九間四面、僧堂は六間四面、衆寮も八間六間と寺格に見合う規模を有していたようである。今なお堂舎は完備していなくとも道場としての雰囲気は残る。
本堂
開山堂
庫裏
鐘楼
惣門
現本堂は桁行九間・梁間七間、二百三十三坪と大人数にも耐えうる大建築である。焼失した仏殿、その礎石を残すが、九間四面、僧堂は六間四面、衆寮も八間六間と寺格に見合う規模を有していたようである。今なお堂舎は完備していなくとも道場としての雰囲気は残る。
本堂
開山堂
庫裏
鐘楼