一葉一楽

寺社百景

霊山寺 ー 惣僧衆五十余人

2018-10-29 14:14:48 | 寺院
霊山寺は明治初めまでは興福寺一条院末であったが、その後高野山真言宗に、更に戦後独立し霊山寺真言宗となっている。本堂、三重塔、鐘楼、鎮守十六所神社等は興福寺末の時代の建物である。丘陵の谷間を挟んで、本堂と三重塔が対峙する。本堂の前には懸造の鐘楼が、真後ろには鎮守がある。前身寺院の一堂宇を中心に地形に応じ堂舎を増やしていったのであろうか。本堂は桁行五間、梁間六間、東南を向く。棟札が残り、弘安六年(1283)上棟で、大工頭末清、引頭国重とある。当時の南都の人気棟梁である。勧進元には、多数の僧侶の名、惣僧衆五十余人とある。弘安年中である、建築の意図は棟札に、「興隆仏法、滅罪生善」とあるが、弘安の役、異国調伏の祈祷がないとは言えないだろう。(古寺巡礼「霊山寺」淡交社 1979)


     本堂

本堂の天井は内外陣ともに折上小組格天井と差異をつけない。近くの真言律宗の長久寺が、弘安二年(1279)建立、内陣を折上天井、外陣の内側一間を組入天井、外側一間を化粧屋根裏とし、格差をつけているのとは対照的である。
大工頭末清と棟木銘に名の残る引頭国重は、正安二年(1300)再建の讃岐本山寺(当時長福寺)本堂では、大工藤原国重となっているが、この本堂でも内外陣の天井に差異はなく、身舎部分は格天井、庇部分は化粧屋根裏となっている。大工棟梁の裁量かもしれないが、人の空間と仏の空間の等質化というよりは、法会の場であり、内陣は選ばれた僧侶の場、外陣はその他僧侶および外護者の場であったと天井は語っているようである。もっとも本尊は厨子に安置し、荘厳化しているが。


  鐘楼

  三重塔

  十六所神社

(注)2018年6月撮影
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