一葉一楽

寺社百景

長崎の寺2ー崇福寺

2022-09-28 15:33:05 | 寺院
キリシタン禁教令は所謂唐人にも例外ではなかった。唐人はキリシタンではないことの證に仏教寺院を建立した。興福寺は三江省出身者中心であった。福州出身者は福州の唐人を檀越とする唐寺創建すること、すなわち崇福寺建立が焦眉の念であった。俗に云う福州寺である。因みに福済寺は福建省でも泉州であった。
寛永六年1629)超然を招聘、殿舎を建立した。寺として体裁が整ったのは寛永十二年(1635)である。赤門(第一峰門)は正保元年(1644)福州で木材を調達且つ組み立て運搬された。正保三年(1646)には何高材の寄進により大雄宝殿が落成した。赤門同様唐土からの船載であった。なお上層が付加されたのは延宝九年(1681)、日本人工匠による。福済寺と同様の体裁としたかったのであろう。
住持は超然以後、百拙如理、道者超元、即非如一、一時和僧が監寺となったが、と福州からの渡来であった。
住持だけでなく明末の建築様式もまた郷土意識が強く、和人大工棟梁には入り込む余地がなかったようである。


  三門

    第一峰門

    大雄宝殿

 鐘鼓楼

 媽祖堂

(注)2022年4月撮影

参考文献:「長崎市史 第4」清文堂 1938
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長崎の寺1ー 興福寺

2022-09-28 15:23:31 | 寺院
明が後金に圧迫された中国の動乱期、元和六年(1620)長崎に来港した貿易商は、四年後出家し真円となった。真円は華僑の寄進を得て仏殿、媽祖堂を建立した。興福寺である。住持はその後江西省出身の黙子如定に、浙江省出身の逸然性融、さらに浙江省出身の逸然性融、一時隠元隆琦のあと、逸然性融が再任、浙江省出身の澄一道亮が続き、享保十九年(1734)まで唐僧であり、第十代大倫浄仁から和僧が幕末まで続く。これは享保九年(1724)幕府から「興福寺崇福寺福済寺住職致シ候唐僧之儀唐国二而嗣法モ不仕僧呼寄長崎右三ケ寺嗣法致シ後後任二成」と言い渡され、手を尽くしたものの呼び寄せに失敗したためである。
大雄宝殿は二代如定が建立、焼失・再建後、慶応元年(1865)暴風雨で大破。明治十一年(1878)江南・浙江・江西省出身による三江会所が結成され、この三江会員の喜捨で、且つ清からの工匠・資材で明治十六年(1883)再建した。




  山門

        大雄宝殿

 鐘鼓楼

 媽祖堂

(注)2022年4月撮影
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