キリシタン禁教令は所謂唐人にも例外ではなかった。唐人はキリシタンではないことの證に仏教寺院を建立した。興福寺は三江省出身者中心であった。福州出身者は福州の唐人を檀越とする唐寺創建すること、すなわち崇福寺建立が焦眉の念であった。俗に云う福州寺である。因みに福済寺は福建省でも泉州であった。
寛永六年1629)超然を招聘、殿舎を建立した。寺として体裁が整ったのは寛永十二年(1635)である。赤門(第一峰門)は正保元年(1644)福州で木材を調達且つ組み立て運搬された。正保三年(1646)には何高材の寄進により大雄宝殿が落成した。赤門同様唐土からの船載であった。なお上層が付加されたのは延宝九年(1681)、日本人工匠による。福済寺と同様の体裁としたかったのであろう。
住持は超然以後、百拙如理、道者超元、即非如一、一時和僧が監寺となったが、と福州からの渡来であった。
住持だけでなく明末の建築様式もまた郷土意識が強く、和人大工棟梁には入り込む余地がなかったようである。
三門
第一峰門
大雄宝殿
鐘鼓楼
媽祖堂
(注)2022年4月撮影
参考文献:「長崎市史 第4」清文堂 1938
寛永六年1629)超然を招聘、殿舎を建立した。寺として体裁が整ったのは寛永十二年(1635)である。赤門(第一峰門)は正保元年(1644)福州で木材を調達且つ組み立て運搬された。正保三年(1646)には何高材の寄進により大雄宝殿が落成した。赤門同様唐土からの船載であった。なお上層が付加されたのは延宝九年(1681)、日本人工匠による。福済寺と同様の体裁としたかったのであろう。
住持は超然以後、百拙如理、道者超元、即非如一、一時和僧が監寺となったが、と福州からの渡来であった。
住持だけでなく明末の建築様式もまた郷土意識が強く、和人大工棟梁には入り込む余地がなかったようである。
三門
第一峰門
大雄宝殿
鐘鼓楼
媽祖堂
(注)2022年4月撮影
参考文献:「長崎市史 第4」清文堂 1938