勝興寺は加賀を追われた蓮如が越中の土豪杉浦万兵衛の屋敷に居を構えた土山御坊が端緒である。高木場、安養寺と移転を繰り返した後、天正十四年(1584)古国府に落ち着いた。蓮如の孫顕誓の孫顕幸の時である。浄土真宗の北陸進出は蓮如の吉崎御坊に始まるといってもよい。「御文」(大谷暢順偏「蓮如上人全集 第ニ巻御文全篇」中央公論 1998)には「年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて、・・・かたのごとく一宇を建立して、」また、「ときこへしが、幾程なくして打つづき加賀越中越前の三ヶ国の内のかの門徒の面々よりあひて、他屋と号して、いらかをならべて家をつくりしほどに、今ははや一二百間の棟かずもありぬらんとぞおぼへけり。或は馬場大路をとほして、南大門北大門とて南北の其名あり。されば、この両三ヶ国の内に於ておそらくはかかる要害もよくおもしろき在所よもあらじ・・・}とある。いわば総構えの形をとっていたようである。この様相は勝興寺にも受け継がれる。
唐門
本堂
式台門
(注)1992年10月撮影
唐門
本堂
式台門
(注)1992年10月撮影