一葉一楽

寺社百景

勝興寺 ー 城跡

2022-10-14 10:38:17 | 寺院
勝興寺は加賀を追われた蓮如が越中の土豪杉浦万兵衛の屋敷に居を構えた土山御坊が端緒である。高木場、安養寺と移転を繰り返した後、天正十四年(1584)古国府に落ち着いた。蓮如の孫顕誓の孫顕幸の時である。浄土真宗の北陸進出は蓮如の吉崎御坊に始まるといってもよい。「御文」(大谷暢順偏「蓮如上人全集 第ニ巻御文全篇」中央公論 1998)には「年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて、・・・かたのごとく一宇を建立して、」また、「ときこへしが、幾程なくして打つづき加賀越中越前の三ヶ国の内のかの門徒の面々よりあひて、他屋と号して、いらかをならべて家をつくりしほどに、今ははや一二百間の棟かずもありぬらんとぞおぼへけり。或は馬場大路をとほして、南大門北大門とて南北の其名あり。されば、この両三ヶ国の内に於ておそらくはかかる要害もよくおもしろき在所よもあらじ・・・}とある。いわば総構えの形をとっていたようである。この様相は勝興寺にも受け継がれる。


 唐門

      本堂

 式台門

(注)1992年10月撮影
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長崎の寺3 ー 清水寺

2022-10-14 10:19:19 | 寺院
江戸初期長崎奉行長谷川権六はキリシタン禁制政策を遂行しつつ、仏教の振興を図っていた。元和年中(1615-1624)の九年間に十ケ寺が創立された。清水寺はその一つである。当初京都清水寺の僧慶順により元和九年(1623)松倉豊後守重政の援助のもと開創、寛文八年(1668)には唐商何高材が改築した。密教本堂の様式が採用されているもの、外陣の黄檗天井など明の様式が混在している。その後正保三年(1646)には南京の商人が石欄・堂前の石敷を改築と唐商による支援が続く。

     

(注)2022年4月撮影
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