「日本書紀」天武天皇四年(675)「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る。」と土左大神が大和朝廷に臣従したとある。「続日本紀」の天平宝字八年(764)の条に「復祠高鴨神於大和国葛上郡」とあるが、土左大神が高賀茂神と同一かどうかは分からない。或いは地方神が中央神に乗り換える時、流刑というかたちをとったのかも知れない。その遠流の地は、延喜式神名帳には都佐坐神社として載る。風土記逸文(「釈日本紀巻十二)に「土左の郡、郡家の西に去ること四里に土左の高賀茂の大社あり」とある。確かに現土佐一宮・土佐神社は国衙跡の西7kmほどのところに鎮座する。「百錬抄」元仁元年(1224)に大風で「神殿已下不残一宇顛倒云々」とあり、その後嘉暦元年(1326)、天文三年(1534)に再建の記録があるものの、永禄六年(1567)本山茂辰の兵乱で羅災。
長曽我部元親が再建、「京都より大助とて、隠れなき上手の大工並に桧皮師を呼下し」元亀二年(1571)に竣工した。凱旋の意のある入蜻蛉式である。元親は浦戸城に移ってから、長浜若宮八幡社を出蜻蛉式に文禄三年(1594)建立している。八幡社は天正十五年(1587)の「長宗我部地検帳」によれば、三間四間茅葺の本社、二間五間の舞殿そして、二間八間の跡のみであったが、横殿からなっていたようである。
再建は本殿・拝殿のみならず現在も残る鐘楼や、三重塔・仁王堂・三昧堂・経蔵など、また神宮寺・長福寺も造営された(「土佐物語」)。巡礼が本殿内陣を雨露を凌ぐ宿舎としたのはこの竣工間もないころである。中世土佐神社の本地仏は阿弥陀如来であった。阿弥陀仏の膝下で宿をとるということか、胡粉塗で隠されていた落書が発見されたのは昭和二年(1927)であった。
楼門
(注)2022年10月撮影
長曽我部元親が再建、「京都より大助とて、隠れなき上手の大工並に桧皮師を呼下し」元亀二年(1571)に竣工した。凱旋の意のある入蜻蛉式である。元親は浦戸城に移ってから、長浜若宮八幡社を出蜻蛉式に文禄三年(1594)建立している。八幡社は天正十五年(1587)の「長宗我部地検帳」によれば、三間四間茅葺の本社、二間五間の舞殿そして、二間八間の跡のみであったが、横殿からなっていたようである。
再建は本殿・拝殿のみならず現在も残る鐘楼や、三重塔・仁王堂・三昧堂・経蔵など、また神宮寺・長福寺も造営された(「土佐物語」)。巡礼が本殿内陣を雨露を凌ぐ宿舎としたのはこの竣工間もないころである。中世土佐神社の本地仏は阿弥陀如来であった。阿弥陀仏の膝下で宿をとるということか、胡粉塗で隠されていた落書が発見されたのは昭和二年(1927)であった。
楼門
(注)2022年10月撮影