日本で初めて 牛乳を売買したお吉。
乳牛の飼育と酪農の必要性☆
お吉がまだ、ハリスに遣えていた頃、
初代駐日公使のハリスは、日米修好通商条約を締結させるべく、
慣れない土地ながら懸命に職務についていた。
しかし、多忙のストレスから、好きなラム酒を飲み過ぎ、吐血してしまった。
お吉は、急情を訴えるべく、
柿崎 玉泉寺から、三キロほど離れた 下田の大工町に住む
奉行所の住医(漢方医) 浅岡杏庵(以後.杏庵)の家へ急ぎ足で向かったそうだ。
しかし、今とは違い もちろん整地は してなく、
3年ほど前(1854年11月)に起きた、
安政東海地震による大津波で、下田町は壊滅的な被害を受けた傷跡がまだ、いたるところに残り、
近道の橋は落ちたままとなっており、迂回していく道は、ボコボコの岩道であった。
その中を走り続けた為、下駄の鼻緒が切れてしまい、走りにくいからと、裸足で先を急いだそうです。
杏庵の門を、叩いた時には、親指の爪は剥がれ、見るも痛ましい姿でした。
その後、二週間ほどで、ハリスは治り、
奉行所から、その功績を称えられ、
杏庵は、お礼の言葉を頂きました。
すると杏庵は、
『お礼はお吉さんに言っておくれ。わしの言う通り、寝ずに薬を煎じてくれたり、色々看護してくれたのは、お吉さんじゃ。』
と言いました。
ハリスも『私が元気になったのも 御禁制の牛乳を 馬込や一条まで、探し求め、飲ませてくれたお陰だ。
とても普通の女の子には、出来ぬ事だ。』
と感謝し労った。
奉行所からは、誉められるどころか、御禁制を破ったと叱られたが、ハリスが説得し、
奉行所より、お吉に牛乳売買金が出されました。(日本初の牛乳の売買)
当時は、乳牛という概念はなく、農耕用としてのみ用いられていた牛、
その牛に子が出来たと聞いては、農家に牛乳を、買い求めにやってくるお吉には、
『牛が飲むものを飲む気か』
と呆れ果て、嘲笑われていた。
多くの農家には、お吉は生涯、牛の血(牛乳)を飲む鬼畜と蔑まされたようだが、
ハリスはこの件があってから、下田奉行所に 掛け合い、
『牛乳は、牛の子供だけが、飲むのだけではなく、どこの国でも人間が飲んでいる。
栄養価が高いから乳牛の飼育をし、肉も食べるように。』
と酪農の必要性を説き、これを奨励した。
下田は、全国でもいち早く酪農 流通の形態が、整備されていったようです。
※1919年 (大正8年)には、下田に、東洋練乳(後の、森永乳業 )が設立されています。
お吉のひたむきさ、健気さ、頑張りがあったからこそ、
明治以後の 日本での酪農が、
より広く浸透し、より盛んに行われていき、
今日の食文化の根底を築き上げることに、一役かったと 言っても過言ではないようです。
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