コメント
Unknown
(
おキヨ
)
2019-06-20 15:07:53
防空壕といえば今の人達には日本の悲劇的な歴史の中にある言葉でしかないでしょうね。
私は東北の片田舎でありながら、第二次世界大戦の末期には、よく敵の飛行機が飛んで来るので防空壕に身を潜めたものですから、防空壕という言葉は体験上のものです。
私の身を守った防空壕はどうなった・・・?
Unknown
(
kazukakawamoto
)
2019-06-20 17:17:03
私は、1945年頃は、尋常高等小学校2年生でした、大阪城の近くの学校に通っていたが、満足に勉強していません。集団で防空壕を入たり、出たりの体験。早く終わればいいなと思いました。
Unknown
(
Bianca
)
2019-06-21 23:32:17
おキヨさま
早速の反応有難うございます。おキヨ様はたしか私の長姉(5歳ちがいで終戦時は1年生)と同じ年齢だと思います。わずかな差ですが、戦争体験という意味では全く別世界の住人だったようですね。私は終戦時に生後8か月で、防空壕には、抱かれて運ばれたそうで、視覚的には記憶がありません。が飛行機の音に小学生位まではいつも恐怖を覚えていました。どこかで憶えていたのか?
>私の身を守った防空壕はどうなった・・・?
戦後しばらくは鹿児島でもあちこちに残っていましたがその後埋められりしたのでしょうね。
Unknown
(
Bianca
)
2019-06-22 00:03:47
kazukokawamotoさま
こちらも素早いコメントありがとうございます。大阪の終戦前日の空襲、田辺聖子の小説などにも触れていますが、すさまじいものだったようですね。kawamotoさんはそういう経験をされたんですね。
ところで終戦時に2年生というと、兄もです。兄と姉は国民学校の1・2年生で1里の道を防空頭巾をかぶり歩いて通い、米機が来ると田や畑に避けたと、楽しい思い出のように語っていたのは、結局命に関わることにはならなかったからでしょうね。
しかし「戦争をしなけりゃ」となどいう飲酒議員の暴言には、次世代を育てるむつかしさを感じますね。
Unknown
(
kazukakawamoto
)
2019-06-22 07:19:38
辺り一面に死体がゴロゴロ、怖さで親にしがみつきまといで、目の前の燃える赤い火が今でも、浮かんできます。
Unknown
(
Bianca
)
2019-06-23 10:43:31
kazukokawamotoさま
わずか1行半ですが、日頃はこういうことを口にされないkawamotoさんだけに、目の前に地獄図が見える様です。
ちょうど今日は沖縄守備隊全滅の日。ひめゆりの語り部たちも90歳を超えてしまい後継者の必要があるとの記事を毎日で読み、13年前に行った沖縄を思い出します。
Unknown
(
桃すけ
)
2019-06-27 12:17:10
私は19年3月生まれですから、防空壕のことは知りませんが、忘れられないのは3月13日の大阪大空襲のとき、母は私をおぶって右だったか左だったか忘れましたが、反対側に逃げたら死んでいたということを聞かされたこと。それと、今、私のマンションの前を走る大通りは以前は川で、そこに人がいっばい浮かんだと聞かされたこと。私の年齢でぎりぎり、戦争の悲惨さを知っているのかも知れませんね。
Unknown
(
Bianca
)
2019-06-27 23:45:52
桃すけ様
おぶわれて逃げ惑ったという記憶がどこかに残っているのでしょうね。1949年の、幼稚園の初日に道路で撮った写真を見ると、背景には汚れた白壁の土蔵だけがポツンと映ってほかの建物がありません。5年もたつのにまだ焼け跡の始末ができていないのです。貧しさやひもじさの記憶は、私までで、4歳下の弟はほとんど覚えていないようです。
コメントを投稿する
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約
に同意の上コメント投稿を行ってください。
コメント利用規約に同意する
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
私は東北の片田舎でありながら、第二次世界大戦の末期には、よく敵の飛行機が飛んで来るので防空壕に身を潜めたものですから、防空壕という言葉は体験上のものです。
私の身を守った防空壕はどうなった・・・?
早速の反応有難うございます。おキヨ様はたしか私の長姉(5歳ちがいで終戦時は1年生)と同じ年齢だと思います。わずかな差ですが、戦争体験という意味では全く別世界の住人だったようですね。私は終戦時に生後8か月で、防空壕には、抱かれて運ばれたそうで、視覚的には記憶がありません。が飛行機の音に小学生位まではいつも恐怖を覚えていました。どこかで憶えていたのか?
>私の身を守った防空壕はどうなった・・・?
戦後しばらくは鹿児島でもあちこちに残っていましたがその後埋められりしたのでしょうね。
こちらも素早いコメントありがとうございます。大阪の終戦前日の空襲、田辺聖子の小説などにも触れていますが、すさまじいものだったようですね。kawamotoさんはそういう経験をされたんですね。
ところで終戦時に2年生というと、兄もです。兄と姉は国民学校の1・2年生で1里の道を防空頭巾をかぶり歩いて通い、米機が来ると田や畑に避けたと、楽しい思い出のように語っていたのは、結局命に関わることにはならなかったからでしょうね。
しかし「戦争をしなけりゃ」となどいう飲酒議員の暴言には、次世代を育てるむつかしさを感じますね。
わずか1行半ですが、日頃はこういうことを口にされないkawamotoさんだけに、目の前に地獄図が見える様です。
ちょうど今日は沖縄守備隊全滅の日。ひめゆりの語り部たちも90歳を超えてしまい後継者の必要があるとの記事を毎日で読み、13年前に行った沖縄を思い出します。
おぶわれて逃げ惑ったという記憶がどこかに残っているのでしょうね。1949年の、幼稚園の初日に道路で撮った写真を見ると、背景には汚れた白壁の土蔵だけがポツンと映ってほかの建物がありません。5年もたつのにまだ焼け跡の始末ができていないのです。貧しさやひもじさの記憶は、私までで、4歳下の弟はほとんど覚えていないようです。