2011年に発表された論文は、哲学的な専門的知識は哲学で計れる問題のいくつか(自由・道徳的判断など)においてあまり効力を発揮しないことを、いくつかのデータをもって示している。
これはつまり、性格による判断基準の偏りは、その多くが哲学的知識で修正できるものではないことを示唆している。
「専門性は判断力を強化するわけではなく、むしろ専門的であるがゆえに判断を誤る」と言われるゆえんの1つだろう。
どれだけ専門性を磨いた正確な案であっても、感情1つで棄却されることもある。
磨こうとしている専門性そのものが、歪んだ認知によって捉えられていることもある。
歪んだ認知が拍車をかけ、成りあがった専門性もある。
感情や欲望の所以を突き止め、それを封じ込めようとする一種の哲学的思想の根幹が感情であることが、なによりの皮肉に思えてならないのだ。
ただ、だからと言って専門性を軽視する理由にはならない。
そもそも、会得した人間の性格を矯正することがほとんどの専門性の主目的ではない。専門性を会得したときに人間の性格が矯正されたのであれば、それは専門性を得るための経験が要因になっているだろう。
専門性とは知識そのものであり、適材適所だ。
専門性が適当に発揮されたからこそこのようなブログが存在できているし、専門性が適当に観察されたからこそ、「専門性は一部の判断基準を是正するものではない」とも言えるのだ。
……露呈しているのは自覚しているからな。
だから私はこの手の話題を扱いたくないんだ。
ーーー彼は「生まれてくることそのものが苦痛だ」と常々言う。
自分の生まれを理由に、生きることがどれだけつらいことかを延々言う。
どれだけ学んでも、苦痛の経験はかき消されないんだなと思えた。
参考文献
Eric Schulza,Edward T.Cokely et al. (2011) Persistent bias in expert judgments about free will and moral responsibility: A test of the expertise defense.