2009年ドラフト会議、北海道日本ハムファイターズ 第2位指名
大塚豊君 おめでとう、君に栄光あれ!
さらに、さらに、さらに、阪神タイガース 育成選手指名
田上健一君 おめでとう、君に栄光あれ!
高田周平君 おめでとう、君に栄光あれ!
[写真] マウンドのやや三塁側を踏んで大きく振りかぶる。
確かに天性の素質も必要だろう。
また、誰にも負けない努力があってのものだ。
だがしかし、名選手には名ライバルありとも言う。
人が人を育てる。負けまいと頑張る気持ちが己を成長させる。
ライバル、それは大塚豊投手と高校時代からエースの座を競った天野隆司投手
個人的な思いで、大変に恐縮だが
天野隆司投手の存在があって、今日の大塚豊投手の成長ではなかろうか?
[写真] キャッチャーミットを見つめ足を上げて力をためる。
二人は1年の夏から、そろってベンチ入りした。
もちろん控え投手だが、背番号11が大塚豊、背番号13番が天野隆司
1年の秋からは、背番号1が大塚豊、背番号10番が天野隆司
2年の夏に一度だけ、が天野隆司が背番号1番を奪った。
しかし、実態はと言うと、大塚は1年の秋こそ投手専門だったが
2年になってからは、クリーンナップを打つ大塚は内野守備に就き
投手としての登板は、後ろの場面が多く
先発のマウンドには天野が立つことの方が多かった。
当時の天野は、今のようなアンダースローではなく
スリークォーターから大きなフォームでテンポよく投げ込むタイプで
切れの良いストレートと高速スライダーでバッタバッタと三振を取っていた。
スピードは、おそらく大塚よりあったのではなかろうか。
一方の大塚は、背番号1を背負ってるものの
ショート・セカンド・ファーストに就くことが多く、投手としてのイメージは
スピードは、さほど感じなかったものの
重たいボールを制球よくコーナーに投げ込み打たせて取るタイプだった。
[写真] 大きく胸を張って足を踏み出す。
大塚投手が、伝家の宝刀フォークを自分のものにしたのは
おそらく2年の冬ではなかっただろうか?
その年の秋、創価はとっても悔しい敗戦を喫した。
甲子園を意識させるような快進撃でベスト8まで勝ち上がった準々決勝
対戦相手は実践学園、初回4番大塚のタイムリーで先制するが
その裏、ファースト大塚の失策を切っ掛けに、盗塁と暴投で同点とされた。
6回表、8番天野のタイムリーなどで一挙に3点を奪うと
何度もチャンスをつぶしながら、4対1で運命の9回裏をむかえた。
先頭打者に四球を出すものの、次の打者をセンターフライに取って一死
ところが次の打者はワイルドピッチと四球が重なり一死12塁
ここで実践学園は代打を出すと、これが当たってセンター前ヒットで一死満塁
ピンチではあるが・・・ マウンドの天野は、まだまだ余裕の表情
次の打者を落ち着いてスライダーを引っ掛けさせると
ボテボテの当り損ねの打球がサード前に転がり、注文どおりの内野ゴロ
勢いよく前に出て来たサードからホームゲッツー
若しくは悪くてもホームアウト、誰もがそう思ったのだが・・・
バウンドを合わせ損ねたサードはファンブルすると
間に合わない1塁への送球は暴投、2点取られて1点差となり、なおも一死23塁
[写真] 力いっぱい渾身のボールを投げ込む。
ここでベンチは、マウンドにファーストから大塚豊を送った。
大塚は期待にこたえて、次の打者をセカンドゴロに打ち取るが・・・
今度は前進守備セカンドがファンブル
とうとう同点とされた上に、なおも一死13塁
一打サヨナラ負けの場面でベンチは満塁策を取り
次の打者を歩かせて一死満塁、しかし・・・ ここで大塚は
攻めのピッチングで、次の打者を注文通りピッチャーゴロに打ち取る。
なんでもないゴロだった。普通のピッチャーゴロだった。
誰もがホームゲッツーだと思った。普通に1-2-3のキャッチボールだと思った。
ところが本塁アウトの後に・・・
大事にポールを握り直したキャッチャーの1塁送球が遅れゲッツーが取れない。
そして・・・ 二死満塁から
次の打者の打球はフラフラとセカンドの頭を超え、センターの前で弾んだ。
こんなことがあるのか? 悪夢のようなサヨナラ負けだった。
しかし・・・ このゲームが彼らに与えた試練が
その後の彼らを大きく成長させた。
私は、そう思っている。
[写真] どうだ。と言わんばかりにストライクコールを待つ。
当時の大塚豊は、たしかに良い投手だったが、
ずば抜けて球が速いわけじゃなく、鋭い変化球も持ってなかった。
ズバリ言えば、三振が取れるウイニングショットを持っていなかった。
個人的な見方で恐縮だが、あの時の後からじゃないだろうか?
大塚豊が、フォークボールと真剣に向き合ったのは・・・
たぶん、そうだと思う。
そして、その努力は結果として高校時代には報われなかったものの
大学に進学してから、そのウイニングショットが大きく花開いた。
また、天野は天野でスピードボールと高速スライダーを捨て
制球の難点を克服するため、アンダースローに活路を開いた。
高校から大学へと、都合7年間も同じ釜のメシを食った大塚と天野
内に秘めたる自己への負けじ魂と、ライバル・相手チームに対する負けじ魂
技術的にも、精神的にも鍛錬を欠かさなかったのだろう。
本当に頑張ったと思う。互いの切磋琢磨に心から拍手を送りたい。
さて、14日からは明治神宮大会が始まる。
君らには、もう一つ大きな壁を打ち破ってもらわなくちゃならない。
日本一を目指してもらわなくちゃならない。
燃えろ!大塚、頑張れ!天野
君らの前途に幸あれ。
そして、創価野球の総決算とも言うべき残り数試合に栄光あれ。
コメントをいただき、ありがとうございます。
たしかに大塚君と天野君は、ダブルエースと言われてました凄い投手でしたが
この年代には他校ならエースになれる良い投手が他に三人もいました。
左の技巧派の大塚繁君、右のサイドスローの中村正光君
そして、オーバースローから気持ちの良い真向勝負の曽根康太君
誰が投げてもゲームメイクの出来る素晴らしい投手陣でした。
彼ら三人あってのダブルエースだったのかもしれません。
また、田上君も守備範囲が広い上に、俊足で内野安打が稼げる良いバッターでした。
小城・赤澤・右原・福山・副島邦が競った厚い外野陣の一角に割り込み
一年生の夏にレギュラーを取ったのですから見事でした。
1番田上が出て、2番篠田が送り、3番橋本がつないで、4番小早川がドカンと返す。
さらに5番赤澤が出て6番小城とエンドラン、7番藤本がもう一発ドカンと突き放す。
さらに8番安井が出て、9番染宮が送って打者一巡
田上君がベンチ入りした1年の夏は惜しくもベスト8で日大三に敗退しましたが、
本当に強いチームでした。
本当にその通りだと思います。
あの実践学園戦は今思い出しても悪夢です。
あのダブルエースで甲子園に行きたかったな…
確かにあの当時の大塚には今のような鋭いフォークはなかったと思います。
あの敗戦が二人の糧になったのなら無断ではなかったのかな。
もう一つ、二人の高校最後の夏は1‐5で保谷に敗れました。連投の大塚が本調子でなく、リリーフの天野も打たれたと記憶しています。
創価の唯一の得点は初回の田上のソロ。
いきなりホームランを打ってしまうとなんとなく大振りになってフライが増えるんですよね。最後まで相手の術中にはまってしまいました。
あの試合が安打製造機・田上の原点にもなったのでは?
勝手な憶測ですがそんなことにも思いをはせてしまいました。
ともかく、彼等の活躍を願うのみです。
長文、失礼致しました。