18年にもなりますか

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愛情

2006-07-17 12:17:17 | 
 秋田男児殺害の容疑者である畠山鈴香(2006年7月17日現在)。娘である彩香ちゃんに対して「愛情はなかった」という。ところで愛情とはなんだ?

 ”母性本能”というものが子供を産み、育てる事に対する理屈を超えた存在であると思っているのだが、どうもこの”母性本能”が最近では何者かに押しつぶされているのではないかと思う。

 人は、基本的に”自己愛”が存在するが、これが屈折すると、”自己嫌悪”になる。”こうありたい”という希望や願望と、その時の自分自身の差を埋めようとする気持ちがあり、人はいろいろな努力をするのだが、それがなかなか成果に結びつかない時や、到底無茶なこととあきらめてしまうときに、人は”自己嫌悪”を感じるものらしい。

 そういう意味では、”自己嫌悪”できるひとは、理想を追い求める、本来的には前向きなタイプといえる。

 しかし、この自己嫌悪も、今の社会ではもっともっと複雑な絡み合い、コンプレックスによって生まれる。隣の家よりも狭いだとか、子供が成績が悪いとか、乗っている車が古いだとか、あるいは、旦那が全然出世しないとか、妻が年々太っていくとか・・・そういう外的なことでさえ、自己嫌悪につながり、”リセット”したくなる。

 奈良の中学生による放火事件も、明らかに”リセット”文化が産んだ事件だ。そんなことしても、リセットできないんだよ、という事や、リセットして何をやりたかったのか?と言うことを問うてみたい。

 さて、この畠山鈴香容疑者だが、娘への愛情が無いという前に、自分自身への愛情も無かったのではないだろうか?理想としたものと現実の自分との間で生まれた”自己嫌悪”。どこかで自分の人生に絶望していたのかもしれない。しかし人は”自己愛”だけは消えない。結果として”リセット”したとは言えないか。

 この日記で常に書いていることだが、”こうあらねばならない”というのが何しろ蔓延しすぎである。”標準値”でないとあたかも幸せになれないかのような風潮には疑問を感じる。

 あれが欲しい、これが欲しいと思いがちになるのは仕方がない事だし悪いことではない。だからといって、モノがなければ不幸、持っていなければ不幸というのはおかしい。

 ”標準”でないことに悲観しすぎること、”あるがままの自分”を認めてもらえないことから来る自己嫌悪とリセット。

 最近の児童虐待や、家庭内で起こっているおかしな事件はここに問題があるのではないだろうか?

 愛情の定義はそれこそ複雑だろうが、まずは、きちんと”自分自身を自分自身で認める”という愛情の第一歩目を踏み出すことから初めてはどうだろうか?そうでなければ、いくら母性本能があっても、愛情を持って子供を育て続けることはできない。