第4話 聖光上人との関係
このようにしてすでに平安時代に開基された明星寺には彼以前にも秀れた学僧が相次いで在住したようである。
程遠くない太宰府には当時日本三戒壇の一といわれた観世音寺戒壇院があり、九州一円の修業僧の学修所であったことからみれば明星寺にも幾人かの優れた学僧も移り住んだことであろう。
彼が師事したと伝えられる常寂法師については詳らかでないが,後年彼が明星寺再興に尽した動機も恩師常寂と無関係とは考えられない。
嘗て青年時代を過ごした法縁の寺であったことはいうまでもないが、恩師常寂に対する感恩報謝の念が彼の決心を固めた動機となったとも一応考えられることであろう。
かれこれ思いめぐらすとき、上人を教えた常寂も、また非凡の学僧であったに違いない。
常寂こそは明星寺初期のころを代表する学僧であり、後期に在住してこの地に没した法橋琳弁とともに明星寺学問僧の代表である。
このような空気の中で育てられた青年僧たちの中からは幾多の数知れぬ俊秀が巣立っていったことであろう。
筑後善導寺を開き法然の高弟として、後年浄土宗弗二祖として鎮西国師の称号を授けられた聖光房弁長を育てた寺院であることも重要であろうが、それと同時に名こそ明らかに伝えられてはいないけれども鎮西仏教の興隆に尽した数多くの人材を輩出したことも忘れてはならない点である。
そのへんに明星寺の天台道場としての面目が躍如として現われているようである。
それにしても、別記する鎮西上人略歴によれば彼が明星寺再興を思い立ったのは、頼朝が将軍宣下を受けた前年の建久2年(1191)のことである。
鎌倉初期の建久のころには早くも衰運に傾いていたことは地方寺院の宿命とはいえ,明星寺の寺運にもまたひとかたならぬ苦難があったことは推察できるようである。
立ったのは、頼朝が将軍宣下を受けた前年の建久2年(1191)のことである。
鎌倉初期の建久のころには早くも衰運に傾いていたことは地方寺院の宿命とはいえ、明星寺の寺運にもまたひとかたならぬ苦難があったことは推察できるようである。
(鎮西村誌より抜粋)