■布里の墓■
尚布里が兵数十人を率い、闇に紛れて、首里城に乱入したのは
子の刻(午前零時前後)であったという。
甲冑姿の尚布里の一団は、城内へ入ると
十数本の松明を点け、御広庭を占拠した。
尚布里は正殿の階に上がって、御内原へ声高く叫んだ。
「余は江洲王子である。志魯王子が即位致さば、
国は滅びるであろう。
よって、尚巴志が六男、布里が代わって玉座に登るべく、参上致した」
「お、叔父上。こ、これは何の真似でござるか!
こ、ここは御城ぞ。
かかる無体な乱入は、御城を踏みにじるものぞ。
神をも恐れぬ所業ぞ。早々に立ち退かれよ」
「立ち退くのは、そなたじゃ。
昼も申した通り、そなたが王位に就かば、わが王統は滅びる。
己が不徳を恥じ、潔く身を引くがよかろう。
王位はそなたに代わり、余が継ぐ。
余が、わが王統を守り抜く」
「百十踏揚 56-」(与並岳生著/新星出版)
昨日訪れた、布里の墓です。
5代目の王であった尚金福王の死後、
金福の息子である「志魯(しろ)」と、弟である「布里(ふり)」の、
王位継承争いが「志魯・布里の乱」(1453年)
結果、
2人とも相討ちで死亡。
そんでもって
首里城全焼。
時代背景をもうちょい詳しく知りたい人は → ★
その時のものかもしれない首里城の遺構は → ★
ちなみにこの「百十踏揚」では布里は死亡ではなく、
身分剥奪&首里払い(玉城に移り住んだ)というということになってます。
布里のお墓は尚泰久のお墓の近く、
南城市玉城にあります。
ここが布里の墓と示すものは墓の前の石碑(写真2枚目)だけで、
周辺には案内板も解説版もありません。
もしかしたら王位についていたかもしれない尚巴志の息子の墓としては
なんともわびしいありさまでございました
…そう言えば志魯のお墓はないのカシラ?
*
『琉球戦国列伝』では志魯も布里も描きました~。
尚巴志を中心に“親子関係(つまり一親等)”までは「直毛」という設定です(笑)
思紹、尚巴志、尚金福、布里、尚泰久、
この親子シリーズ、ある程度は似せて、かつ違いを出すの結構難しかった…
布里は尚巴志に似て低身長+童顔系、かつ血気盛んめのおっさんというキャラ設定です。
尚金福が1番特徴なくフツ~(笑)
「人間」としていまいちリアルにとらえきれてない証拠
ちなみに汪応祖の家系は縮れ毛で量が多いという設定(笑)