先週、勝連グスクに立ち寄ったときに
テンションがあがった理由その1。
ぬを…っ!!
東の郭、大躍進!!
…って日本語おかしいし(笑)
東の郭は勝連グスクに行くたびに登って
その進行状況をチェックしていたエリアでしたが、
今まで覆われていた草木が見事に伐採されて
その姿があらわに!
あらっ、これまでこんな斜面を行き来してたのね
ちょっぴり登るの怖かったわ
(つかむ木や枝もないしね)
見えぬが仏、だったかも?
東の郭は普通の人は気にすることのない未開拓エリアですが、
実は勝連グスクは東の郭が整備されてはじめて
「勝連グスクだ」とも言えるような超重要なエリア。
王府軍による勝連討伐(勝連グスク侵入)は、
地形上、この東の郭から攻められたとも言えるのですから。
というわけで、「百十踏揚」より抜粋です。
■勝連グスク~東の郭~■
第一段階は、むろん東グスクでの攻撃である。
敵(※首里軍)が突入を図るとすれば、ここ以外にはないのだ。
ここには、約200人の槍隊を配置した。
これを率いたのは照間大親。
漁港のある照間村の長で、銛の遣い手として知られた猛将である。
この東グスクでは、門扉を破り、あるいは城壁を乗り越えて突入してくる王軍を、
槍襖で迎え撃とうというものだった。
実際、この東グスクの槍隊は、突入してきた首里の兵らを
入ってくる順に串刺しにしていったことだ。
しかし、後から後から鼎が沸くように押し出してくる王軍の勢いを、
止める事はできなかった。
槍隊の大半は斬り伏せられて地に這い、
残りはじりじりと、下グスクへ追い返されていった。
*
王軍の先方は東グスクを占拠し、
下グスクへ追い込んだ勝連兵たちに、矢を浴びせ、火筒を炸裂させて行った。
東グスクから下グスクは見下ろしである。
王軍は下グスクの建物群にも、射下ろしに、火矢を注いだ。
「百十踏揚 p516-」(与並岳生著/新星出版)
とまぁ、なんとも壮絶な首里軍突入の様子。
でもその前には、
この東の郭のすぐ外、平坦な地であったという東原で
勝連軍の鮮やかな先制攻撃があったのです。
突然、東門に陣取った前線で、
ワーッと、喚声が沸き起こった。
「何だ!」
将たちは立ち上がって、幔幕の外へ飛び出した。
鬼大城も後に続き、そして
「あっ!」
と、目を瞠った。
鬼大城と将たちは、そこに予想だにしなかった光景を見たのだった。
突如として、勝連城の東門が開かれ、
怒涛が堰を切って溢れ出すように、ドドーッと大地を揺るがし、
砂塵を巻き上げて騎馬軍団が吐き出され、
つむじ風のように、首里の軍兵の中へ躍り込んできたのである。
*
陣幕を出て、一瞬アッと叫んで立ち竦んだ鬼大城であったが、反射的に
「おのれ!」
と、次の瞬間には、陣幕前につないであった愛馬に飛び乗り、
「槍!」
と叫び、郎従が差し出すのをひったくると、
「どけ、どけーッ!」
兵たちをかき分けて飛び立った。
*
勝連の騎馬隊はパニックに陥った首里の前線で、
疾風迅雷、竜巻が荒れ狂うように地けむりを上げて蹂躙していた。
これを率いていたのは、屋慶名大親と津堅大親であった。
屋慶名はいくさ用の大斧をビュンビュン振り回し、
津堅は刀を振りまわし、その先頭を突き進んでいた。
*
「津堅、もう良い!引き上げだ!」
「承知!皆、引け!」
津堅は、鬼大城を取り巻いた兵達に叫んだ。
皆一斉に馬首を返した。
一連の行動は、秩序だった、見事なものだった。
「や、逃げるか、卑怯な!」
鬼大城が叫んだ。
騎馬隊のしんがりに立った屋慶名が振り返って、
「鬼大城よ、これはほんの挨拶がわりよ、後ほどゆっくり刃を交えようぞ」
言い捨てて屋慶名は
「では―――」
というように、鬼大城へ不敵に片手をあげると、
身を返して馬腹を蹴った。
いかにも人を喰った態度であった。
「おのれ、待て、屋慶名大親!」
カッとなって、鬼大城は追撃していったが、
勝連の騎馬隊は砂塵を巻き上げて、もはや城門に吸い込まれ、
その殿から屋慶名は悠々と、城門の中へ消えた。
「百十踏揚 p479-」(与並岳生著/新星出版)
これは正史にもある記述で
いかに勝連軍が勇猛かつ侮れない相手であったのかが分かるエピソードでもあります。
其の城(=勝連城)、西北は険阻、南は海濱に臨み、東角は平易なり。
而して阿摩和利は武勇の人なり。
或いは城を出て殺戦し、或いは門を閉じて拒禦す。
居数(=鬼大城)大いに怒り… (以下略)
「球陽」より
東の郭の発掘&復元作業が進み、
在りし日の勝連グスクの全貌が現れるのが待ち遠しいですね
*オマケ*
勝連城跡ののぼり。
…なんで白目むいてるの?
(せっかくかわいい阿麻和利様なのに~)
マジックで黒目書き足したくなる…。
歴史ブログ 琉球・沖縄史
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