風塵抄から引用。
「民を新たにしつつ、みずからも新たにならねばならない。
伊尹(いいん)の王の湯(とう)は、毎朝顔をあらった。
かれはそのための青銅製盤に、9つの文字を彫りつけた。
その銘にいう。 苟日新 日日新 又日新 。
苟(まこと)ニ日ニ新(あらた)ナリ
日日(ひび)新ナリ
又(また)日ニ新ナリ
新ということばが反復(リフレイン)されていて、こころよい。 」
( 司馬遼太郎著「風塵抄」の 56『新について』から引用 )
『新』ということで、思い浮かぶのは、
大村はま/ 苅谷剛彦・夏子「教えることの復権」(ちくま新書)。
夏子】 ・・・大村国語教室の一つの特徴として、30数年間で
同じ単元を繰り返さなかったということが言われますね。・・
大村】他の人に向って、繰り返すべきでないと言うつもりはないです。
第一、小学校などでは同じ教科書を何年か使わざるを得ないでしょう。
繰り返してはいけないというわけではない。私にとって
繰り返さないということは、教材としての理由というよりは、
教室へ出る自分の姿をよい状態で保つ、主にそのための工夫でした。
なにせ新しいものを持って教室に出るというときは、
新鮮で、誰よりも自分がうれしいですよ。
夏子】それはそうでしょうね。その先生のうれしさが伝わって子どももうれしいし。
大村】そうね。なんとなくね。教師のもっともいい姿は、
新鮮だということと謙虚だということですよ。
中学生なんていうのは生意気でね、
まだ小さいのになんとも言えない誇りを持っているのよ。
だからちょっとでも未熟というふうに見られるのは、
大人が想像できないほど嫌いですよ。
新しい単元を持って出るときに、
私はちっとも得意ではないのですよ。心配。
大丈夫かな、うまくいくかしらって心配している。謙虚になっている。
その少し心配している気持ちがとても子どもに合うのよ。
新鮮で謙虚ということを間違いなくやろうと思ったら、
新しい教材に限るんです。
苦労することなく、自然に、よい状態を保つことができる。
手慣れてくるとあぶない。・・・・ ( p66~67 )
うん。もうすこし引用をつづけたいけれど、ここまでにします。
新年にむかい『新』の反復ということで司馬遼太郎に大村はま。