和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

新鮮な反復(リフレイン)。

2022-12-29 | 道しるべ
風塵抄から引用。

「民を新たにしつつ、みずからも新たにならねばならない。

 伊尹(いいん)の王の湯(とう)は、毎朝顔をあらった。
 かれはそのための青銅製盤に、9つの文字を彫りつけた。

 その銘にいう。 苟日新 日日新 又日新 。

  苟(まこと)ニ日ニ新(あらた)ナリ
  日日(ひび)新ナリ
  又(また)日ニ新ナリ

 新ということばが反復(リフレイン)されていて、こころよい。 」

    ( 司馬遼太郎著「風塵抄」の 56『新について』から引用 )



『新』ということで、思い浮かぶのは、
大村はま/ 苅谷剛彦・夏子「教えることの復権」(ちくま新書)。


夏子】 ・・・大村国語教室の一つの特徴として、30数年間で
    同じ単元を繰り返さなかったということが言われますね。・・

大村】他の人に向って、繰り返すべきでないと言うつもりはないです。
   第一、小学校などでは同じ教科書を何年か使わざるを得ないでしょう。
    
   繰り返してはいけないというわけではない。私にとって
   繰り返さないということは、教材としての理由というよりは、

   教室へ出る自分の姿をよい状態で保つ、主にそのための工夫でした。
   なにせ新しいものを持って教室に出るというときは、
   新鮮で、誰よりも自分がうれしいですよ。

夏子】それはそうでしょうね。その先生のうれしさが伝わって子どももうれしいし。

大村】そうね。なんとなくね。教師のもっともいい姿は、
   新鮮だということと謙虚だということですよ。

   中学生なんていうのは生意気でね、
   まだ小さいのになんとも言えない誇りを持っているのよ。

   だからちょっとでも未熟というふうに見られるのは、
   大人が想像できないほど嫌いですよ。

   新しい単元を持って出るときに、
   私はちっとも得意ではないのですよ。心配。
   大丈夫かな、うまくいくかしらって心配している。謙虚になっている。

   その少し心配している気持ちがとても子どもに合うのよ。
   新鮮で謙虚ということを間違いなくやろうと思ったら、

   新しい教材に限るんです。
   苦労することなく、自然に、よい状態を保つことができる。
   手慣れてくるとあぶない。・・・・       ( p66~67 )


うん。もうすこし引用をつづけたいけれど、ここまでにします。
新年にむかい『新』の反復ということで司馬遼太郎に大村はま。
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きれいさっぱりわすれて。

2022-12-20 | 道しるべ
年末年始で思い浮かべるのは、年賀はがき。
書き初め。百人一首。年賀の挨拶ときて、
そうそう。日記もありました。

今年こそは日記を書こう。
この年になってまだ、そんなことを思ってる。
毎年三日坊主の癖して、性懲りもなく。

続かない初心を、忘るべからず。
ということで、今回は日記をとりあげます。

梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)は、1969年出版。
この年(昭和44年)、前田夏子(今の苅谷夏子)が大村はまの
中学校に入っております。


はい。国語教室で読まれていた『知的生産の技術』を思いながら、
あらためて、この岩波新書をひらいてみます。

『知的生産の技術』の第9章は「日記と記録」。
この第9章のはじまりの小見出しは「自分という他人との文通」。

「年末になると、書店の店さきに日記帳がならびだす。・・」
とはじまっています。はい。すこし長く引用しますよ。

「 日記とはいったい何であるか、などという本質論はあとまわしにして、
  とりあえず、日記のかき方について、しるそう。こういうことも、

  前章の手紙の話とおなじで、学校でもおしえないし、
  一般にも議論されることがない。そのため、形式や技法が
  いっこう進歩しないのである。

  新年に日記をつけはじめても、まもなくやめてしまう人がおおい
  というのは、ひとつにはその技術の開発がおくれているためであって、
  かく人の意志薄弱とばかりはいえない点もあろう。 」( p161~162 )


うんうん。すぐ意志薄弱へと結びつける私が間違っていそうに思えてくる。
ということで、梅棹氏の文をつづけてゆきます。

「 日記は、人にみせるものでなく、自分のためにかくものだ。
  自分のためのものに技法も形式もあるものか。

  こういうかんがえ方もあろうが、そのかんがえは、
  二つの点でまちがっているとおもう。第一に、
  技法や形式の研究なしに、意味のある日記がかきつづけられるほどには、

  『自分』というものは、えらくないのがふつうである。
  いろんなくふうをかさねて、『自分』をなだめすかしつつ、
  あるいははげましつつ、日記というものは、かきつづけられるのである。

  第二に、『自分』というものは、時間とともに、
  たちまち『他人』になってしまうものである。

  形式や技法を無視していたのでは、すぐに、
  自分でも何のことがかいてあるのか、わからなくなってしまう。

  日記というものは、時間を異にした
  『自分』という『他人』との文通である、とかんがえておいたほうがいい。
  手紙に形式があるように、日記にも形式が必要である。・・」(p162)

このあとの梅棹氏の語りを引用していくと切りがないのでここまでにして、
第3章「カードとそのつかいかた」からも、最後に引用しておくことに。

「カードは、わすれるためにつけるものである。・・・
 つまり、つぎにこのカードをみるときには、
 その内容については、きれいさっぱりわすれているもの、
 というつもりでかくのである。

 したがって・・・
 自分だけにわかるつもりのメモふうのかきかたは、しないほうがいい。
 一年もたてば、自分でもなんのことやらわからなくなるものだ。

 自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ、
 ということをわすれてはならない。    」( p54~55 )


さて、ここからです。
大村はま先生は、この新書を生徒たちに読ませて、
ご自身も読んで、どう授業に反映させていたのか?










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おおらかで軽やかな。

2022-12-17 | 道しるべ
師走といっても、おきらくに暮らしています。
何もしていないから思い浮かぶ本があります。

今朝思い浮かんだ本は、岡倉覚三著「茶の本」(岩波文庫)。
御存知。岡倉天心の本です。英文で書かれ、岩波文庫は村岡博訳。
この文庫には、天心の弟・岡倉由三郎の「はしがき」があり、
最後の解説は、福原麟太郎。

本文の第一章「人情の碗」の数行目にこうあります。

「 茶道の容義は『不完全なもの』を崇拝するにある。
  いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、
  何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。 」


はい。年末年始にあたって、
『 いわゆる人生というこの不可解なもの 』に
思いを馳せるわけです。

さてっと、ブログへ書き込みをしていると、
私の場合、写真とかはアップしてないので、
文字だけで完結しちゃうブログなのですが、
文字にもそれなりに一年の起承転結はある、
ということにして、つぎに思い浮かぶのは、

角川選書「俳句用語の基礎知識」でした。
ここに『挙句(あげく)』の記述がある。

歌仙の場合は36句ですが、こうあります。

「 なお三十六句のうち、名称のあるのは
  『発句』『脇(わき)』『第三』『挙句』で、
  そのほかはすべて『平句(ひらく)』という。 」

うん。平句以外だけだと、まるで、起承転結の四文字みたいです。
起が『発句』。承が『脇』。転が『第三』。そして結が『挙句』。

この角川選書で『挙句』を説明しているのは、山下一海氏。
6ページほどで、説明しておられました。
ここには、最後のページを引用しておくことに。

「 ともあれ、大らかで軽やかな挙句の響きは、古い時代の
  俳諧の風韻をよく伝えるものである。

  現代の俳人諸氏も、ときには挙句を口ずさんでみて
  その味わいを楽しまれるとよい。もっとも、

  連句一巻の巻頭にある発句は、独立して俳句として作られるようになるが、
  常に前句に付けられ、一句としては軽いものであった挙句は、
  独立して作られることにはならなかった。  」


 「【一般語への転用】 この挙句という言葉は、
   転じて物事の終わりや、終わってからの結果をあらわすようになり、
   さらに一つの職業や地位から他に移ってきたことや
   その人をあらわすこともある。
  『その挙句に』とか『挙句の果て』というような使い方もされている。」
                         ( p18 )


2022年の『 大らかで軽やかな挙句の響き 』を、
この12月に響かせてくださる方のいらっしゃれば。
そばで、聴いていたいのでした。





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ちょとしたコツみたいなもの。

2022-12-05 | 道しるべ
今はどうなのでしょう?
私の小学生の頃は『書き初め』は当然のようにありました。
中学では、ちょこっとあったかなあ。

大村はまの国語通信を読んでいて、思ったのですが、
私の『書き初め』は、書く言葉のお手本があって指定されていた。
そこが気になり書いてみます(昨日のブログの続きになります)。

まずはここから。
苅谷夏子さんは、大村はまの授業をこう語っておりました。

「学校という場は、すでにできあがった知識体系を、
 疑う余地も残さず、あたりまえの顔をして教えてしまう。
 立派な知識のお城を前に、生徒は委縮した
 未熟な存在にならざるをえないところがある。

 ところが、この『ことば』という平易な、しかし
 やっかいなことばの分類をしてみたことで、私は 
 しゃんと背筋が伸びた気がしたわけだ。
 過去に知的遺産を築いた人々と同等の資格を持って、
 堂々と勉強を進める楽しさを教えられたのかもしれない。

 実際、大村国語教室の私たちは、
 生意気とも思えるほど一人前の
 『学ぶ人たち』だったのではなかろうか。 」
           ( p48 「教えることの復権」ちくま新書 )

『書き初め』で、自分が書く言葉を、自分で選ぶところからはじまる。

うん。この引用は途中からで、わかりずらい箇所もありますが、
まあいいか、つぎを続けます。

苅谷夏子さんは、1956年生まれ。
13歳の二学期でした。
こうあります。

「私は中学生になった。相変わらず理数系のほうが肌に合うと思っていた。
 一年生の夏休み、父の転勤に伴い石川県金沢市から東京都大田区へと
 引っ越して、区立石川台中学校に転入することになる。

 夏休み明けのじりじりと暑い日、私は国語教室として使われていた
 図書館で、当時63歳だった国語教師大村はまに出会った。」
               ( p18~19 同上 )


断捨離されずに、大村はまさんの、その頃の「国語教室通信」は残され、
しかも手書きのままの資料が、大村はま国語教室資料篇②として読める。

苅谷夏子さんは、昭和44(1969)年の二学期に大村はまと出会います。
ちなみに、この昭和44年(1969)7月21日に出版された本はといえば、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)がある。
すこし前の、1965年に
梅棹忠夫は、電通の依頼でセミナーの講師をしております。
その演題が『知的生産の技術』でした。こうあります。

「わたしの演題は、『知的生産の技術』ということであった。
 わたしの著書『知的生産の技術』が刊行されたのは1969年のことであるから
 このときはまだ姿をあらわしていない。しかし、わたしはすでに、

 1965年の4月から岩波書店の雑誌『図書』に
 『知的生産の技術について』という連載記事を
 断続的に発表しはじめていたのである。
 それに電通の担当者が注目したのであろう。・・・」

         ( p177 「梅棹忠夫著作集」第11巻 )


はい。岩波の雑誌『図書』と、『知的生産の技術』というキーワードが
大村はまの国語教室通信を、パラパラとめくっていると出てきました。

昭和46年10月9日の国語教室通信のはじまりに

「岩波の図書10月号に、『本と子どもと図書館と』という題で
 『いぬい・とみこ』さんの文章がのっています。読みましたか。・・」

はい。大村はまさんが、雑誌『図書』を注目していたとわかる箇所です。

同じ年の46年10月23日国語教室通信には、裏面にこんな箇所がありました。

 ♢D組、『知的生産の技術』と『読書論』、返してない人、大至急。
  今度は、A組で使うので、本をもてない人ができてしまいます。
  忘れたら、とりに行ってもらいます。



はい。はじまりへと戻るとすると、

梅棹忠夫著「知的生産の技術」の『まえがき』に
こんな箇所があり。思い浮かびます。

「 ・・ちょっとしたコツみたいなものが、
 かえってほんとうの役にたったのである。
 そういうことは、本にはかいてないものだ。・・」


学校の『書き初め』というのは
私の場合、前提として『書き初め』言葉が決められていて、
それを書くものだとばかり思って今にいたっておりました。

それが大村はまさんの国語教室では、自分で自分の言葉を選び
その選んだ言葉を、大村先生がお手本を書いては見本としてる。

『ちょっとしたコツみたいなもの』ということから、
わたしは、まど・みちおの詩の一行が思い浮かびます。

『 なんでもないことが たいへんなことなのだ 』

ちょっとしたコツという、何でもないことが、大変なことなのだ。
生徒ひとりひとりの言葉を、おてほんとして見本を書いてあげる、
そんな『ちょっとしたコツ』を、実行する大村は何者なんだろう。
はい。知るためには、そこに大村はま全集が待ち構えております。

うん。こうして自分で自分に言い聞かせ、全集を見あげます。


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「大切にしたいことば」は?

2022-12-04 | 道しるべ
今日は、年一回の海岸掃除。
昨年までは、打ち上げられた竹や木材を燃やしていたのですが、
今年からは、空き缶・プラスチックをひろい集めるだけになる。
燃やすのは、楽しいのですが後処理の役員負担軽減のため中止。
そのあとに、草刈りして青天のなか手配した弁当を食べて終り。

大村はまさんは、書道も教えていたようです。
気になったので、その箇所を引用してみます。

「大村が昭和3年、22歳で最初に教壇に立ったのは、
 信州の諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)だった。
 ・・・・・
 ある時期、大村は書道の先生も兼ねていて、生徒全員に、
 それぞれの名前と住所を書いたお手本を配った。

 また正月には、
 新しい年に『大切にしたいことば』を持つようにさせ、
 一人ひとりの『大切にしたいことば』を、ていねいに筆で
 清書して与えていた。・・・・」
  (p39 苅谷夏子著「大村はま 優劣のかなたに」ちくま学芸文庫 )


はい。この箇所が気になっておりました。
大村はまは、戦後、中学の国語の先生になりそれを最後まで通します。

大村はまの「国語教室通信 昭和44年~48年」というのが
全集の増補版にあるのでした。それをひらいていたら、
それは手書きの学級通信でした。一週間に一回の回数で
出していたようです。それをパラパラひらいていたら、
ありました。昭和44年11月29日の「国語教室通信」。
はい。教室通信の一面見出しは「書き初めの準備」とあります。
うん。楽しくなるので、この箇所だけ全文を引用しておきます。

「♢本校では、毎年一月に一年生を主体にする書き初め展が催されます。
 
 ♢12月の終わりに練習し、一月のはじめの国語の時間に書きます。

 ♢練習用のたんざくを使い、それに、新年の志を書くことにします。

 ♢めいめいのことばがちがうわけですから、どのように書くか、
  見本を書いてあげたいと思います。

 ♢自分のことばを考えて、12月8日(月)に提出、
  おくれると、書いてあげられません、提出日厳守。

 ♢どういうことばでもいいですが、字数が多いと、
  あの小さいたんざくに、書きにくいでしょう。
  漢字一字でもいいでしょう。
  漢字二字のことばには、皆さんがモットーとして
  揚げてもいいことばがいろいろあるでしょう。
  外国語は使わないことにします。
  かたかなで書くことばは使わないことにします。

 ♢このたんざくをラシャ紙にはって展示し、
  あと自分のつくえの前にでもはっておく
  ことができるようにしましょう。

 ♢用紙は学校で用意します。
  筆は細筆です。これは自分自分が用意。


はい。45年1月10日の「国語教室通信」の見出しは
「書きぞめ展」とあります。
ここは、はじまりと、おわりとを引用。

皆さんのいっしょうけんめい書いた
「新年の志」全部展示します。
 
一、飾りつける日 ・・・・
一、会場 ・・・・・
一、見る日 ・・・・
一、片づけ ・・・・
一、学校で書いたほかに、
  家で書いたのがあったら、ぜひ持ってくるように。


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Jアラートという名の『空襲警報』

2022-11-15 | 道しるべ
夕刊フジ11月15日の二面。
江崎道朗氏の連載1回目。
はじまりはというと、

「近いうちに戦争を仕掛けられるかもしれない。
 あるいは、戦争に巻き込まれることになるだろう。
 
 そう考えて日本政府は、その準備を始めた。

 9月22日、岸田文雄首相は官邸に、
 『国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議』
 を設置した。その趣旨には『有事』、つまり戦争を想定した
 『総合的な防衛体制の強化と経済財政の在り方』を
 検討することだと書いている。・・・・・・

 9月30日、岸田首相が出席した第1回会議では、
 『自衛隊だけでは国は守れない』という・・発言まで飛び出した。

 ・・・これらの発言を受けて浜田靖一防衛相はこう発言している。

 『これは、わが国への侵攻を防げるか防げないのか、
  国民を守れるのか守れないのかという問題であります。

  中途半端なものでは降りかかる火の粉を払うことはできません。
  ・・・われわれに残された時間は少ないと考えます。われわれは
  直ちに行動を起こし、5年以内に防衛力の抜本的強化を実現しな
  ければなりません。』

  今年に入って、北朝鮮のミサイル発射を受けて
  Jアラートという名の『空襲警報』が鳴り響くようになった。
  ・・・・

  限定的とはいえ、米国の機密情報を知り得る浜田氏が
  政府の公的な会合で、『われわれに残された時間は少ない』
  と述べたことを軽んじてはなるまい。  」


夕刊フジには、こういう文が情報として載っておりました。
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小学校の学級通信。

2022-10-28 | 道しるべ
もう20年より以前なのですが、御多分にもれず、
子どもが小学生の時にPTAの役員が回ってきました。

役員になると、学区より大きな地区の各小学校の集まりも
ありました。そんなこんな出事が多かったのですが、
印象に残っていることがありました。

PTA役員という通行手形で、隣の小学校などにも
行事を口実に、気楽におじゃましておりました。
開かれた学校ということで、嫌な顔はされませんでした。
「学級だより」とか「園だより」とか「学校だより」とか
週一回の便りがあったり、毎日出している「学級だより」も
見せていただきました。
隣の学校の校長先生からは、自分が担任していた頃の
最後の「学級だより」がまとめてあり、
僭越ながら借りて読ませてもらったことがあります。

う~ん。奥が深いものなんだなあ。
と読ませていただいて思っておりました。
自分が小学生の頃は、ボケっとしていたから、
知らずに過ごしていたのかもしれないし。
何よりも学校によって異なることも知りました。

うん。こんな話をしているのはなぜか?
「大村はまの国語教室」の読み始めに、
そのPTAの頃の印象が蘇ってきました。

あの頃、読ませてもらった学級だよりの内容にただ
驚いてばかりでしたが、それだけになっていました。
うん。もっと深いものを読んでみたかったけれども、
そこはそれ、腰かけのPTA役員でしたので、
その役を引き継げば、そこでもうおしまい。

今回、「大村はまの国語教室」を買ったは、
忘れていたPTAでの読みたかった記憶に結びつきそうです。
うん。根っこでつながったようなことを、
今日になって思い出しております。






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ことばの担(にな)う役割の。

2022-10-22 | 道しるべ
苅谷夏子著「大村はま 優劣のかなたに」(ちくま学芸文庫)。
これを読んだら、つぎを読みたくなりました。この文庫の文中
「大村の代表的著作『教えるということ』の中で」(p184)とある。
うん。次はこの本を読んでみようと思う。

古本でネット検索すると、すぐに見つかる。
大村はま著「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫)。
はい。注文して20日発送されたのですが、郵便は土日配達がない。
届くのは来週の月曜日以降となります。

手持無沙汰で、苅谷夏子さんの、この文庫をあらためて開く。
ぱらりとひらけば、「40・頭を使う」(p172~174)がある。

苅谷さんは、まず大村はまさんの言葉を引用したあとに、
自分の思い浮かぶ言葉がならべてあります。

「私(苅谷)が中学生だった頃は、時実利彦さんが脳科学者として
 活躍していた。大村はまももちろん大いに注目し、尊敬した。

『時実利彦先生がおっしゃったことを思い出します。
 子どもに「考えさせる」ということをした人が
 いちばん教師としてすぐれている、・・・・
 
 できるようになったか、ならないか、どっちでもよろしい。
 けれども、考えるということをさせた事実、
 「考えなさい」と言った人ではなくて、
 考えるということ本気でさせた人が、
 いちばん偉いとおっしゃったのです。

 それだけのために教師はあるぞと、
 先生はおっしゃったのです。』(「大村はまの国語教室3」)


はい。もう少し引用しておわります。

『考えさせることができないことばは全部むだ
 風が吹いたようなもので、声が出ているだけで、
 教育的なことばではないわけです。・・教師らしくない、

 教育効果のないむだごとで、
 そういうのはむだ話なんだ、
 むだと同じなんだと思いました。』(「大村はまの国語教室3」)

こうして引用したあとに、苅谷さんはつづけておりました。

「大村は国語教師であり、なによりことばを大切にした人だったから、
 考えるという行為におけることばの担う役割の重さを非常に重視した。

 考えの歯車を回す。その具体的な歯の一つ一つが、
 大村に言わせれば『ことば』であるのだと思う。・・・

 ・・これはもう国語という教科をはるかに飛び越え、
 教育とか、大人が子どもを育てる、とか、そういう
 非常に大きな営み全体を捉えたことばになっているのを感じる。

 こうして大づかみにしたとき、何か新鮮な空気が、
 教師にも生徒にも吹き込んでくるのではないだろうか。

 社会を非常に現実的に見ているし、また、だからといって
 勉強をつまらない卑小なものにしない、という点で、
 賢明なつかみ方なのではないだろうか。 」( ~p174 )



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面白い雑誌をつくるには。

2022-08-20 | 道しるべ
産経新聞の8月20日
『花田紀凱(かずよし)の週刊誌ウォッチング』から引用

「新聞、テレビなど大メディアが、一方に振れたとき、
 ちょっと違うのでは、こんな見方もあるのでは、
 と発信するのが、雑誌ジャーナリズム、特に週刊誌の役割だろう。

 ところが、このところの『統一教会』批判、まさに『魔女狩り』
 とでも言うべき大メディアの報道に、異を唱えるどころか、
 週刊誌も一緒になって煽(あお)っている。

 実に情けない。

 ・・・その『新潮』、今週もトップは『統一教会』で・・・

 7月の参院選で、萩生田光一氏が、生稲氏を伴って
 八王子市内の関連施設を訪れたという、たったそれだけの話。
 ・・・・・

 渡邉哲也さん(経済評論家)が、こんなことを言っていた。

 『 統一教会系の団体の会合に出たとか追及されて
   ヘドモドしている政治家も情けない。そう言われたら、
   ≪ いや、私、創価学会の会合にも、立正佼成会、霊友会
     の会合にも出てますよ。何が悪いんですか ≫
   と返事すりゃいいんです  』              」


週刊新潮の表紙絵・谷内六郎さんが亡くなってあと、
いちばんの痛手は、新潮社の編集者・齋藤十一さんが亡くなった
ということでした。

小島千加子さんの「齋藤さんの徳」には、

「・・やがて週刊誌へと移行、
 自分の思い通りの誌面造りへと発展させたのである。

 誰もやろうとせず、やれなかったことをやるのが人間としての生き甲斐、
 という齋藤さんの、果敢な精神の発露である。   」
                          ( p38 )

 亀井龍夫の「私は齋藤さんを生きている」では

「 ・・・・
 私にいわせれば、程度の低い人を相手になさらなかっただけだと思う。

 何をいってもわからない、わかろうとしない、
 そういう人を相手にしているヒマはない。

 これが齋藤さんの生き方であり、
 私も年をとればとるほど、程度の低い人は相手にしないに限る
 と考えるようになっている。この面でも私は
 齋藤さんを生きていることになるのであろうか。    」( p87 )


伊藤貴和子さんの「『ひかり』の中で」には

「『 人の群がるところに行くな 』

 『 読者がこういう本を読みたいだろうから、
   ではなく自分が面白くて、読みたい本を出せ 』

 『 本は書名が命だ 』
 『 宣伝文句に、使いふるされた文言を使うな、自分の言葉をみがけ 』

 等々、編集者の心得を日々叩きこまれた。  」 ( p131 )


うん。あと一人。
松田宏さんの「 齋藤さんの思い出 」に

「 齋藤さんとのエピソードは書けばきりがない。
  私が接触した齋藤さんは、いわば晩年の齋藤さんである。

  しかし、編集理念に衰えは見られなかった。
  その理念とは何かと聞かれれば、
  『逆説』という一語につきるかも知れない。

  戦後民主主義のバカさ加減をあますところなく追究された。

  『面白い雑誌をつくるには面白い人間になれ』
  よくおっしゃっていた言葉だ。・・・       」( p140 )

 以上の引用は、「編集者齋藤十一」(冬花社・2006年)でした。
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7月9日の「編集手帳」

2022-07-09 | 道しるべ
コンビニで朝日・日経・毎日・東京の各新聞を買ってくる。
さきほど、新聞店で読売新聞をもらってくる。

一面コラムは、読売新聞の編集手帳。
産経抄は、書き手が狼狽している状況報告のようだし、
他の新聞は、冷静ぽさが鼻につく。

ここには、7月9日の編集手帳から
ほぼ半分以上を引用してみます。
ここでは、編集手帳を読まれない方のために。



「  昭和から平成にかけて、新興俳句の道を歩んだ
   上田五千石の一句を思い出す。
   『 万緑や死は一弾を以って足る 』

   見渡す限りの緑の景色に、
   何物も入り込む余地もないほど生が横溢している。
   死などあり得ないと思われる中に銃声が響く。
    ・・・・・・・

   参院選が終盤を迎えている。
   ロシアという専制主義の国の暴挙、
   中国という一党独裁国家の勢力拡大
   ・・・世界が変わる中、
   何事もなく政治に参加できる今の日本は
   民主主義が横溢する景色といえないか。

    ・・・・・・
    ・・・・・・
   突如響いた銃声が自由な言論の場を
   暴力と死の景色に一変させた。

   長く首相を務めた人である。
   安部さんの表情、声、話し方を知らない人はあるまい。
   ご冥福をお祈りしたい。
   民主主義を脅かす蛮行に負けまいと。              」
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先達(せんだち)は、あらまほしき。

2022-06-06 | 道しるべ
徒然草を通読しようと、今回私が
指名した水先案内人は島内裕子氏。

まず古本で手にしたのが、
島内裕子・校訂訳『徒然草』(ちくま学芸文庫・2010年)。

では、案内人による「はじめに」での口上から

「本書が目指すのは『通読できる徒然草』である。
 徒然草こそは、自己の内界と外界をふたつながら
 手中に収めた、日本最初の批評文学であり、

 表現の背後に、生身の兼好の、孤独も苦悩も、
 秘めやに織り込まれている。兼好は、決して
 最初から人生の達人ではなかった。

 徒然草を執筆することによって、
 成熟していった人間である。
 ここに徒然草の独自性があり、
 全く新しい清新な文学作品となっているのである。」( p12 )


こんなふうな口上をする、水先案内人にも興味があります(笑)。
うん。文庫を読んでゆく前に、島内さんのことも知りたくなる。

島内裕子さんは、1953年東京に生まれる。とあります。
別の本ですが、「おわりに」の最後にこうありました。

「わたくしが最初の論文集『徒然草の変貌』を上梓したのは、
 平成4年だった。放送大学に着任し・・・・・・

 ここ10数年間の歩みを振り返っていると、いつのまにか
 論文の数も増え、研究の関心分野も自然に広がっていた。
 けれどもそれらはすべて、徒然草から発生し、生成し、
 展開していったものである。

 徒然草に最初に出会った十代の半ばからのことを思えば、
 改めてわたくしの人生の大部分の時間を徒然草とともに
 過ごしてきたことに感慨を催す。

 その間、家族の理解と協力に恵まれたことは幸いであった。
 つねにわたくしを見守り支えてくれた家族に、本書を捧げたい。
   ・・・・・
        平成20年6月       島内裕子    」

 ( p532 島内裕子著「徒然草文化圏の生成と展開」笠間書院  )


はい。これは一筋縄ではいかなそう、腰をすえて。
ここは古本で島内裕子さんの本数冊注文しました。
水先案内人のお喋りを聴きながらなら徒然草通読
も苦にはならなそうです。これなら今から楽しみ。

では、「徒然草文化圏の生成と展開」の「はじめに」
から引用。島内さんが指し示す先を望見してみます。

「あまりにも有名で身近な存在であるが故に、徒然草は、
 誰でもよく知っている『入門書扱い』をされて久しい。

 換言するならば、徒然草の真の文学的な達成と、
 文化史的な重要性が、いまだ十分には認識されていない
 ということである。しかしながら

 徒然草こそは、日本文化の隅々まで浸潤し、
 日本人の思考形成の支柱とも言える作品なのである。

 そのことが従来それほど強調されて来なかったのは、
 逆に徒然草の存在が、あらゆる面で日本文化の血肉となって、
 普段はそれと意識せずに暮らしていることの証左とも言えよう。

  ・・・・・・・・四百年にわたる徒然草研究史は、
  徒然草という作品そのものの研究が中心になってきた。

  徒然草が日本文化の中でどのような役割を演じ、
  何を生み出し、人々の心の襞にどのように深く入り込んだかという、

  徒然草が日本文化史に及ぼした影響力を解明する総合的な研究視点が、
  ややもすれば忘れがちだったように思われてならない。

  今、この時代にこそ、トータルな問題意識に支えられた、
  新たな徒然草認識が必要であろう。・・・・        」


何だか、私に思い浮かぶのは、徒然草・第52段でした。
ここは、島内裕子さんの訳のはじまりとさいごと引用。

「 仁和寺(にんなじ)法師が、年を取るまで、
  石清水八幡宮にお詣りしたことがなかったので、
  そのことを残念に思い、ある時、
  思い立って、ただ一人で、徒歩でお詣りした。 」

うん。真ん中は思い切ってカットし、最後の一行。

「 少しのことにも、先達はありたいものである。 」(p112・文庫)

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『星の王子さま』の『箱』

2022-04-15 | 道しるべ
尾形仂著「座の文学」(講談社学術文庫)の
あとがきに、教官たちが月に一度集まって
『芭蕉の連句を読む会』を、かれこれ十年ほど続けたとあります。
同人には、独文・仏文・国文・東洋史・日本史・英文・漢文と
尾形氏を入れて10名の名前が並んでおりました。
そのメンバーに外山滋比古の名前があります。

そういえば、外山滋比古に『俳句的』(1998年・みすず書房)
という本がありました。短いエッセイがまとめられた一冊。
たとえば、『よむ?』と題する文は4㌻ですぐに読めてしまいます。
その最後は、こうあるのでした。

「活字印刷になれきってしまったわれわれは、
 詩歌に対してあまりにも近代読者的でありすぎるように思われる。
 ・・・・・
 詩歌では心に響くものがなければ、何もならない。
 ひょっとすると、俳句は読んではならないのかもしれない。」(p78)

うん。これだけじゃわからない。
その、すこしまえからも引用。

「俳句の表現そのものは、きわめて、小さな音しかたてないが、
 享受者の心を共鳴箱にして、ちょうど、ヴァイオリンのかすかな
 絃の音がすばらしい豊かな音になるように、増幅される。

 たとえ、絃がよい音を出しても、
 共鳴箱がこわれていれば、よい音色は生れない。

 散文においては、読者の共鳴箱にもたれかかった表現は
 むしろ邪道であるが、詩歌では共鳴を無視するわけには行かない。

 もっとも深いところに眠っているわれわれの共鳴箱を
 ゆり動かしたとき、ことばは力なくして鬼神を泣かしめることができる。
 ・・・・  」

もどって、尾形仂氏のあとがきにあった『芭蕉の連句を読む会』。
そのことを、尾形氏は語っておりました。
「 談笑の間に、その座から受けた学恩ははかり知れない。
  私が座という問題に関心するようになったのも、
  一つはそういう座の体験からきている。・・・・ 」(p370)

うん。外山氏の『俳句的』の本も、あるいはその副産物なのかも
しれないなあと思ってしまいます。

共鳴箱といえば、
サン=テグジュペリ作『星の王子さま』(内藤濯訳)が浮かんじゃう。
砂漠の真ん中に不時着した、ぼくは『ヒツジの絵をかいて』という
ぼっちゃんと出会います。
『 ふしぎなことも、あんまりふしぎすぎると、
  とてもいやとはいえないものです。 』
こうして、ぼくは、ヒツジの絵を描く羽目になるのでした。
けれども、どうしても、ぼっちゃんには、気に入ってもらえない。
最終的にどうしたのかというと、ここに箱が登場しておりました。

「『こいつぁ箱だよ。あんたのほしいヒツジ、その中にいるよ』
  ぶっきらぼうにそういいましたが、見ると、ぼっちゃんの顔が、
  ぱっと明るくなったので、ぼくは、ひどくめんくらいました。 」

うん。この空気穴をあけた箱は、じつは共鳴箱だった。
そう。今になって、やっと氷解したような気がします。

もどって、講談社学術文庫『座の文学』には、
さいごに、大岡信の解説が載っておりました。
その解説の最後ページから引用して終ります。

「 私は十年も先輩の尾形さんに対して、
  随分勝手な放言に類することもぶつけるのが常だった。
 
  そして、それが常に確実な手応えで受けとめられ、
  何倍も深く重い答えとなって返ってくる快感に酔わされたのだった。

  これは作り話ではない。『芭蕉の時代』をもしどこかで
  見つけることができたら、ぜひそれを手にとって中を読んで
  もらいたいものだと思う。

  そこには、座談特有の親しみ深さで語られた、
  芭蕉とその時代を口実とする≪座の文学≫俳諧についての、
  実に興味津々たる大学者の炉辺談話があるのを人は見るにちがいない。」
                           ( p380 )

ふ~う。またしても手元に置きたくなる本がふえそう。
王子さまなら、こう言うのだろうか。

『 うん、こんなのが、ぼく、ほしくてたまらなかったんだ。 』




コメント (2)
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柳田国男は、考えこんでいる。

2022-03-31 | 道しるべ
谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ・新書・平成18年)。
はい。この本を本棚からだしてくる。

52冊の本が紹介されている1冊。
この本が紹介する、最初の本が柳田国男著「木綿以前の事」でした。
谷沢さんは『木綿以前の事』を、どのように紹介されているのか?

「柳田国男は、学問とは何か、と根本から問いかけ、
 人は何の為に勉強するのか、と考えこんでいる。

 この広い世の中に暮らす多数者を助ける気持ちで、
 本を読み努めるのでなければ、我が国の次の代、
 またはその次の代は、今より幸福にはならぬのである。
 と記した。」(p15)

こうも書いております。

 「少数の、運よく成功した人に拍手を贈るよりも、
  多数者の幸福を僅かでも増すために、何をどうしたら
  よいかの工夫に真心をこめて、じっくりと思案する
  のが人間本来の路ではないか。」(p14)

この本は編集者の意向で、年齢別におすすめ本を列挙してゆく
形をとって、15歳・20歳・30歳・40歳・50歳・60歳・70歳と
その年齢に合わせての配列となっておりますが、私はどれも
読んではいないので、あんまりピンとはきませんでした。
最初の章『15歳』のはじまりに『木綿以前の事』があった。
最後の章『70歳』でとりあげられている
安東次男著『定本風狂始末芭蕉連句評釈』のはじまりは、こうでした。

「世界に類例を見ない我が国のみに成立した独自の文芸様式である
 俳諧の特色をなす視座の優しみを的確に指摘し、なかんずく
 『芭蕉七部集』の、他に替えがたい魅力を、心の底からの
 共感に基づいて記した評論の代表は柳田国男(「木綿以前の事」)
 である・・・」(p220)

このあとに、『木綿以前の事』の自序を引用しております。
その引用のあとには

「柳田国男が史上ほとんどはじめて強調したように、
 俳諧に唱われた女性の映像(イメージ)は、一読して
 忘れ得ぬほどひときわ艶(あで)やかである。・・・」(p221)

このあとに、『冬の日』の俳諧を引用して、そのあとでした。

「残念ながら、俳諧表現の陰影(ニュアンス)を解き明かすのに
 成功した注釈は少ない。私は教職にある時数年かけて七部集を講じ、
 近世期以来の夥しい注解を比較対照したが、そのほとんどは
 些事に拘わる近世学問に共通する通弊のため、題材に選ばれた
 事象の故事来歴と出典の考証に傾き、句から句への移りに込められた
 連想の感得力に乏しいのが常である。・・・」(p222)

はい。これから俳諧がなんであるかを読み始めるには
打って付けのエールが聞こえてくる一冊のような気がしてきます。
いよいよ、私に読み頃をむかえたのでした。

はい。谷沢永一著「いつ何を読むか」をひらくと、
いつも何も読んでいなかった自分が映し出される。
これほど、読んでもいない本が並ぶのは困惑迷惑。

などと、パラパラひらくと『20歳』の章に、
西堀栄三郎著『ものづくりの道』があって、
それについて谷沢さんは、どう書いていたか。
最後にそこから引用しておきます。

「・・明朗な叡智と人を大切にする温情との結晶である。
 生涯を日本国民の幸福増進を願うのみ、
 画期的な成果を挙げながら
 名声を求めなかった豪傑の語録に盛られた声を聞かないで、
 一体何のための読書であり学問であろうかと訝しむ。」(p47)


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菩提寺。過去帳。坊主神主。

2022-02-05 | 道しるべ
読んだこともない尾崎一雄というのは、どういう人だろうと、
『日本の古本屋』の本の検索でもって、名前を打ちこむと、
いろいろ出てきました。この検索では当然著作が出てくるなかに、
雑誌とか、たどるのが分かりずらい対談集とかも探せる。

ああ、ここにあると、気づかせてくれる検索です。
「安岡章太郎対談集1・作家と文体」(読売新聞社・1988年)の
最初の安岡氏との対談者が尾崎一雄氏でした。
ちなみに、この本の装丁は田村義也。すっきりしています。
はい。はじめて読んでみました。

すると、江戸時代の菩提寺のことへ話題が展開する箇所がある。
そうだ、江戸時代の菩提寺といえば、
小林秀雄著「本居宣長」の冒頭の箇所が浮かんできます。
ここはおさらい。佐伯彰一氏の文を引用します。

「『本居宣長』の冒頭の一節で、宣長が死の直前に書き残した
自身の葬儀にかかわる遺言を、小林さんは・・解き明かしてゆかれた。

江戸時代のことで、各人の菩提寺がきっちりと規定されていたのだが、
宣長は、やはり自身のために神道の葬儀を、と綿密に式の次第から
お墓の場所、様式まで指定して・・・・

死にまつわる神道的アンビヴァレンスをいち早く見抜き、
把えたのも、じつの所『古事記伝』の著者であったが、
『本居宣長』を書き出すにあたって、まず宣長の墓所を
たずねずにいられなかった小林さん・・・」
(p59~60・佐伯彰一著「神道のこころ」の「日本人を支えるもの」より)

さて、安岡章太郎と尾崎一雄の対談でした。
尾崎一雄氏の家は代々神主の家系としてありました。
それに話題がゆくと、江戸時代の隠れ切支丹に触れる箇所がありました。

尾崎】・・・それは辻善之助という人の『神仏分離史料』という
でっかい本がある。それが切支丹禁制のために、
神主でも菩提寺を持たなくちゃいけないと、
だから死んだら過去帳はお寺にあるんですよ。

うちのも江戸時代の三代将軍以下くらいはお寺にあるんです。
というのは切支丹改めのあれでもって、お寺ですべて戸籍みたいな
ものを作っちゃったわけだ、過去帳を。

それで葬式をする場合も坊主がこれをやる。
神主が神式の自家葬ができないんだよ。
  ・・・・・・・・・・・・・・

それから僕のほうでは、僕の四代前くらいに尾崎山城守というのが
いたんだ。これがこのへんの神主の先頭になって江戸へ行ったんだ。

そして寺社奉行で一年ないし二年くらいの係争事件をやって、
勝って、それで自家葬をこのへん一帯認めさせた。
だから山城さんという名が上がっちゃったわけだ。
だから僕のうちはいまでも山城さんと言われている。

僕の子供の時分、ああ、これが山城さんのお孫さんかよう、
かわいいねと言って、どこかのおばさんが頭をなでてくれる。

山城さんてなんだろうと、うちで聞いたら、
それはこういうことがあって、坊さんと喧嘩して勝ったと、
それが江戸末期ですよ。新政府になってからはもちろん
そういうことは取っ払っちゃったわけです、
廃仏毀釈だから。   (p18~19)

ここで、尾崎一雄さんは著書『坊主神主』のことへ
言及しておりました。

「・・僕が書いたのは、島根県の浜田だったか、
そこの連中が藩主といくら談判してもけりがつかないんで、
とうとうみんなで金を持ち寄って、江戸の寺社奉行へ直訴
しようと企てるんです。
それを実行する直前にやっと当主と嫡男だけは自家葬でよろしいと、
藩主の許可が下りたんでやれやれと。・・」

うん。菩提寺。過去帳。自家葬。隠れ切支丹。それに廃仏毀釈と
神道を読もうするといろいろな言葉がでてくるのでした。



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正月早々だから・・・(笑)。

2022-01-27 | 道しるべ
新春対談というと、思い浮かべる対談があります。
文芸春秋1971年3月号に掲載された司馬遼太郎・桑原武夫の対談。

もっとも、私は単行本に掲載された際に読んで印象に残りました。
最後の方に、こんな箇所があったのでした。


司馬】 ですから、日本語というか、日本語表現の場所は、
    もうどうしようもないものがあるのかもしれない。

桑原】 いや、日本語はもうどうしようもないと、
    あきらめに話をおとさずに・・・・、
    
    正月早々だから・・・(笑)。まあ、日本語は、
    いままで議論したように、基礎はできた。・・


 そして、新春対談の最後の箇所を引用することに

桑原】 さっき司馬さんがおっしゃった、
    理屈が十分喋れて、しかも感情表現が豊かな日本語・・
    そこに持っていくのは、われわれ生きている者の
    義務じゃなでしょうか。

司馬】 いい結論ですね。


はい。今日は2022年1月27日。
今は、正月早々じゃないのだけれども、
現在、『いい結論』へと持っていけていますか。
とか、他人まかせがいけませんね。
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