和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あの自由が。

2009-05-09 | 幸田文
幸田文を読もうと思っている。
まあ、思っているだけなわけなんです。
すると、こんなアプローチもありかなあ。
という、箇所をみつけたりします。
まるで、幸田文登山に、さまざまな登山路を見つけていくような。
それで、ここにも登山矢印がある。
という、一例。

長谷川三千子・水村美苗というお二人。
どなたからいきましょうか。
「幸田文の世界」(翰林書房)の最初のエッセイは
水村美苗氏からはじまっておりました。
まずその1ページ目に、こうあります。
「幸田文は偉大な作家である。・・・
なにしろ私の心のなかで幸田文の名は、一葉のみならず、漱石、谷崎などと並んでいるのである。このさき幸田文はどう評価されてゆくのだろうか。」
なかほどに、こんな箇所もあります。
「幸田文の使う言葉は徹頭徹尾文学に育まれた言葉である。そうでなくては、あのような力強い文章を書けるものではない。幸田文の文学はまことに文学的な文学なのである。それでいて、幸田文の文学は文学から限りなく自由な文学――文学のさまざまな規範から限りなく自由な文学なのである。雑文とも随筆とも小説とも何なりと勝手に呼んでくれ、私にはこれが精一杯である。と自分の書いたものを読者の前にどさりと投げ出す。あの自由は、文学の王道を行く露伴の抑圧を逆手にとり、露伴が象徴するものすべての対極に身を置くことによってえた自由にほかならない。あの自由があるからこそ、幸田文の書くものは、文学とは何か、という問いのおおもとへまっすぐに切り込む。どんなに文学らしい文学よりも、どんなに言葉をつくして文学について語った文章よりも、文学とは何か、という問いのおおもとへとまっすぐに切り込むのである。・・・・幸田文を読んだあとは、ふつうに小説などを書くのが馬鹿らしいという気になる。いや、書くという行為自体が馬鹿らしいという気にさえなる。それでいて、自分もあのようなものを書かねばという欲望にやみくもにとらわれる。文学というものの非力と文学というものの大いなる力を同時に啓示されるのである。論理的展開もないまま、言葉の力だけによって、人をここまで導くことのできる作家というものを私はほかに知らない。・・・」

うん。あとは、幸田文を読むだけなんですけれどもねえ。

ところで、長谷川三千子氏には
雑誌に短期連載された「幸田分の彷徨」というのがあります。
こちらは、枚数が水村美苗氏よりがぜん多い割には、意味がいまいち。(「正論」2004年12月・2005年1月・2月の三回に渡っての短期連載でした)ここまでなら、どうともないのでしょうが、「諸君!」2009年5月号に長谷川三千子氏は「水村美苗『日本語衰亡論』への疑問」という文を掲載しておりました。水村氏の「日本語が亡びるとき」をテーマにして論を展開しております。
おいおい。こちらは、長谷川三千子氏のほうが面白そうです。
(ちなみに私は「日本語が亡びるとき」は未読)
それよりも、長谷川三千子著「バベルの謎」(中公文庫)の
まえがきのはじまりが気になります。
「もともとこの本は、『ことば』と題する本の第一章、あるいは単なる『プロローグ』となるはずのものであった。ことばの問題を探究してゆこうとすると、かならずどこかで、ヨーロッパの言語思想の伝統を支配している或る強迫観念(オブセッション)ともいうべきものにつきあたる。すなわちそれは、『ただ一つの言語』という強迫観念である。或る意味では、この『ただ一つの言語』という強迫観念こそがヨーロッパの近代言語学発展の原動力となってきたとも言えるし、また、それ故にこそ、二十世紀の後半に至ってそれが足踏みすることになったのだとも言える。いずれにしても、この『ただ一つの言語』という強迫観念の及ぼしてきた力は、ことばの問題を探究しようとする者にとって――それを日本語から探究してゆこうとしている者にとってすら――見過しにできないものである。」

こと、幸田文の讃歌としては、水村美苗氏に軍配をあげたい。
でも、『ことば』というのでは、長谷川三千子氏が面白そう。
ちなみに、「幸田露伴の世界」(思文閣出版)が今年のはじめに出ておりまして、その編は、井波律子氏。


何やら、映画の予告編みたいな感じです。
でもね、予告だけで、肝心な中身を見ないというのもあります。
それに、予告編ばかりがよくって
実際映画は、つまらなかったということもあったりします。

水村美苗氏の予告篇
「このさき幸田文はどう評価されてゆくのだろうか」
というのは、どうなるのでしょう。
私たちは、その評価の先鞭をつける箇所に立っているわけです。
立っている場合か。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

め・眼・目。

2009-05-09 | 幸田文
匿名コラム「紳士と淑女」が、徳岡孝夫氏の文だとわかってみると、
そういえば、私は徳岡氏の文を読んでいない。
私が知っている徳岡氏というのは、ドナルド・キーン氏の訳者としてでした。
まあ、そういうわけで、何冊か古本屋へと徳岡孝夫氏の本を注文しております。
とりあえず、「妻の肖像」という本が手元に届いております。
そこに掲載されている「喪妻記」の雑誌掲載年は2001年4月とあります。
そこからの引用。

「十五年前の脳下垂体腫瘍のため右眼失明、左眼は視野きわめて狭く、矯正視力0・2しかない薄明である。前方にファインダーミラーを認め、よく見ると車だったという危険なこともたびたびある。外出時には杖をひくが、大きい横断歩道を渡るときには先に『これが人生の見納めの景色かなあ』と思ってから渡るようにしている。」と徳岡氏ご自身のことに触れておられました。

そういえば、話題がそれてゆきますが、2001年(平成13年)9月17日の一枚の写真がありました。小泉総理に招かれた、山本夏彦・徳岡孝夫・石井英夫・川上信定の諸氏。それを石井英夫氏が撮った写真があります。

「諸君!」2009年6月最終号。
そこに石井英夫氏が、その写真について言及しております。
山本夏彦ファンには、先刻ご承知の写真一枚であります。

「その翌平成十四年二月、八十七歳の山本さんはガンで胃の全摘出手術を受け、そのガンの転移で十月二十三日、世を去った。直前まで原稿を書き続け、利き腕の右手には最後まで点滴の針を打たせなかった。絶筆は写真コラム『遠きみやこにかへらばや』である。」と、その一枚の写真のあとを石井英夫氏は書いております。

その写真、そういえば、山本夏彦氏の顔がすぐれない。
もうひとつ、徳岡孝夫氏の顔も写っております。

写真といえば、幸田文の一枚の写真があります。
昭和28年頃の木村伊兵衛撮影の一枚。その幸田文の目が、どうもピントがあっていないような感じを受けておりました。よくテレビで拝見するようなテリー伊藤氏の目みたいな感じに、私には思えるのでした。

青木玉対談集「祖父のこと 母のこと」(小沢書店)に、こんな箇所があります。

「机の上に二つの地図を置いて、ホログラフィみたいなもので覗くと立体的に見えるんです。母は片目が悪くて、まあ見えるという程度なので、なかなかうまく立体的に見えないと騒いでいました。」(p34)という箇所があります。


次にいきましょう。
幸田露伴の眼は、どうなっていたか。
青木玉著「小石川の家」(講談社・単行本)に、こんな箇所。


「目はもともと小さい時に失明しそうになって、一生を暗闇に過すかと悲しんだことがあったから、何かと気をつけて大切にしていたが、何分仕事がら、細かい字を見たり終日筆を持つ無理を重ね、白内障が進行して、お月様は何時も欠けて見えるし、小さい虫が目の前を飛んで邪魔だと言っていた。こういう、大事にはならないが日々の生活に不自由なことは、年寄りじみて、当人にとっては不機嫌の種になった。
大曲に下る安藤坂の途中に、萱沼さんという眼科の先生があった。何かの折に母が相談に行って、当時にしては眼科の往診は滅多に無いことであったが、先生と奥様が時々みえて見舞って下さった。大そう穏やかな方で、人肌に温めたお薬で目を洗って頂くと、気持ちがよくて、祖父は菅沼先生の往診を心待ちにしていた。殊に奥様が色白でふっくりした愛嬌のあるお顔立ちで、口元にえくぼを見せてにこにこ介添えして下さると、吉祥天女か薬師如来のようだと、祖父は柄にもなく、よい子になっていた。」(p123)

これは、戦争が拡大する前のころの回想として出てきます。

目ということで、最近読んだ
徳岡孝夫・幸田文・幸田露伴の3人に登場していただきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする