幸田文を読もうと思っている。
まあ、思っているだけなわけなんです。
すると、こんなアプローチもありかなあ。
という、箇所をみつけたりします。
まるで、幸田文登山に、さまざまな登山路を見つけていくような。
それで、ここにも登山矢印がある。
という、一例。
長谷川三千子・水村美苗というお二人。
どなたからいきましょうか。
「幸田文の世界」(翰林書房)の最初のエッセイは
水村美苗氏からはじまっておりました。
まずその1ページ目に、こうあります。
「幸田文は偉大な作家である。・・・
なにしろ私の心のなかで幸田文の名は、一葉のみならず、漱石、谷崎などと並んでいるのである。このさき幸田文はどう評価されてゆくのだろうか。」
なかほどに、こんな箇所もあります。
「幸田文の使う言葉は徹頭徹尾文学に育まれた言葉である。そうでなくては、あのような力強い文章を書けるものではない。幸田文の文学はまことに文学的な文学なのである。それでいて、幸田文の文学は文学から限りなく自由な文学――文学のさまざまな規範から限りなく自由な文学なのである。雑文とも随筆とも小説とも何なりと勝手に呼んでくれ、私にはこれが精一杯である。と自分の書いたものを読者の前にどさりと投げ出す。あの自由は、文学の王道を行く露伴の抑圧を逆手にとり、露伴が象徴するものすべての対極に身を置くことによってえた自由にほかならない。あの自由があるからこそ、幸田文の書くものは、文学とは何か、という問いのおおもとへまっすぐに切り込む。どんなに文学らしい文学よりも、どんなに言葉をつくして文学について語った文章よりも、文学とは何か、という問いのおおもとへとまっすぐに切り込むのである。・・・・幸田文を読んだあとは、ふつうに小説などを書くのが馬鹿らしいという気になる。いや、書くという行為自体が馬鹿らしいという気にさえなる。それでいて、自分もあのようなものを書かねばという欲望にやみくもにとらわれる。文学というものの非力と文学というものの大いなる力を同時に啓示されるのである。論理的展開もないまま、言葉の力だけによって、人をここまで導くことのできる作家というものを私はほかに知らない。・・・」
うん。あとは、幸田文を読むだけなんですけれどもねえ。
ところで、長谷川三千子氏には
雑誌に短期連載された「幸田分の彷徨」というのがあります。
こちらは、枚数が水村美苗氏よりがぜん多い割には、意味がいまいち。(「正論」2004年12月・2005年1月・2月の三回に渡っての短期連載でした)ここまでなら、どうともないのでしょうが、「諸君!」2009年5月号に長谷川三千子氏は「水村美苗『日本語衰亡論』への疑問」という文を掲載しておりました。水村氏の「日本語が亡びるとき」をテーマにして論を展開しております。
おいおい。こちらは、長谷川三千子氏のほうが面白そうです。
(ちなみに私は「日本語が亡びるとき」は未読)
それよりも、長谷川三千子著「バベルの謎」(中公文庫)の
まえがきのはじまりが気になります。
「もともとこの本は、『ことば』と題する本の第一章、あるいは単なる『プロローグ』となるはずのものであった。ことばの問題を探究してゆこうとすると、かならずどこかで、ヨーロッパの言語思想の伝統を支配している或る強迫観念(オブセッション)ともいうべきものにつきあたる。すなわちそれは、『ただ一つの言語』という強迫観念である。或る意味では、この『ただ一つの言語』という強迫観念こそがヨーロッパの近代言語学発展の原動力となってきたとも言えるし、また、それ故にこそ、二十世紀の後半に至ってそれが足踏みすることになったのだとも言える。いずれにしても、この『ただ一つの言語』という強迫観念の及ぼしてきた力は、ことばの問題を探究しようとする者にとって――それを日本語から探究してゆこうとしている者にとってすら――見過しにできないものである。」
こと、幸田文の讃歌としては、水村美苗氏に軍配をあげたい。
でも、『ことば』というのでは、長谷川三千子氏が面白そう。
ちなみに、「幸田露伴の世界」(思文閣出版)が今年のはじめに出ておりまして、その編は、井波律子氏。
何やら、映画の予告編みたいな感じです。
でもね、予告だけで、肝心な中身を見ないというのもあります。
それに、予告編ばかりがよくって
実際映画は、つまらなかったということもあったりします。
水村美苗氏の予告篇
「このさき幸田文はどう評価されてゆくのだろうか」
というのは、どうなるのでしょう。
私たちは、その評価の先鞭をつける箇所に立っているわけです。
立っている場合か。
まあ、思っているだけなわけなんです。
すると、こんなアプローチもありかなあ。
という、箇所をみつけたりします。
まるで、幸田文登山に、さまざまな登山路を見つけていくような。
それで、ここにも登山矢印がある。
という、一例。
長谷川三千子・水村美苗というお二人。
どなたからいきましょうか。
「幸田文の世界」(翰林書房)の最初のエッセイは
水村美苗氏からはじまっておりました。
まずその1ページ目に、こうあります。
「幸田文は偉大な作家である。・・・
なにしろ私の心のなかで幸田文の名は、一葉のみならず、漱石、谷崎などと並んでいるのである。このさき幸田文はどう評価されてゆくのだろうか。」
なかほどに、こんな箇所もあります。
「幸田文の使う言葉は徹頭徹尾文学に育まれた言葉である。そうでなくては、あのような力強い文章を書けるものではない。幸田文の文学はまことに文学的な文学なのである。それでいて、幸田文の文学は文学から限りなく自由な文学――文学のさまざまな規範から限りなく自由な文学なのである。雑文とも随筆とも小説とも何なりと勝手に呼んでくれ、私にはこれが精一杯である。と自分の書いたものを読者の前にどさりと投げ出す。あの自由は、文学の王道を行く露伴の抑圧を逆手にとり、露伴が象徴するものすべての対極に身を置くことによってえた自由にほかならない。あの自由があるからこそ、幸田文の書くものは、文学とは何か、という問いのおおもとへまっすぐに切り込む。どんなに文学らしい文学よりも、どんなに言葉をつくして文学について語った文章よりも、文学とは何か、という問いのおおもとへとまっすぐに切り込むのである。・・・・幸田文を読んだあとは、ふつうに小説などを書くのが馬鹿らしいという気になる。いや、書くという行為自体が馬鹿らしいという気にさえなる。それでいて、自分もあのようなものを書かねばという欲望にやみくもにとらわれる。文学というものの非力と文学というものの大いなる力を同時に啓示されるのである。論理的展開もないまま、言葉の力だけによって、人をここまで導くことのできる作家というものを私はほかに知らない。・・・」
うん。あとは、幸田文を読むだけなんですけれどもねえ。
ところで、長谷川三千子氏には
雑誌に短期連載された「幸田分の彷徨」というのがあります。
こちらは、枚数が水村美苗氏よりがぜん多い割には、意味がいまいち。(「正論」2004年12月・2005年1月・2月の三回に渡っての短期連載でした)ここまでなら、どうともないのでしょうが、「諸君!」2009年5月号に長谷川三千子氏は「水村美苗『日本語衰亡論』への疑問」という文を掲載しておりました。水村氏の「日本語が亡びるとき」をテーマにして論を展開しております。
おいおい。こちらは、長谷川三千子氏のほうが面白そうです。
(ちなみに私は「日本語が亡びるとき」は未読)
それよりも、長谷川三千子著「バベルの謎」(中公文庫)の
まえがきのはじまりが気になります。
「もともとこの本は、『ことば』と題する本の第一章、あるいは単なる『プロローグ』となるはずのものであった。ことばの問題を探究してゆこうとすると、かならずどこかで、ヨーロッパの言語思想の伝統を支配している或る強迫観念(オブセッション)ともいうべきものにつきあたる。すなわちそれは、『ただ一つの言語』という強迫観念である。或る意味では、この『ただ一つの言語』という強迫観念こそがヨーロッパの近代言語学発展の原動力となってきたとも言えるし、また、それ故にこそ、二十世紀の後半に至ってそれが足踏みすることになったのだとも言える。いずれにしても、この『ただ一つの言語』という強迫観念の及ぼしてきた力は、ことばの問題を探究しようとする者にとって――それを日本語から探究してゆこうとしている者にとってすら――見過しにできないものである。」
こと、幸田文の讃歌としては、水村美苗氏に軍配をあげたい。
でも、『ことば』というのでは、長谷川三千子氏が面白そう。
ちなみに、「幸田露伴の世界」(思文閣出版)が今年のはじめに出ておりまして、その編は、井波律子氏。
何やら、映画の予告編みたいな感じです。
でもね、予告だけで、肝心な中身を見ないというのもあります。
それに、予告編ばかりがよくって
実際映画は、つまらなかったということもあったりします。
水村美苗氏の予告篇
「このさき幸田文はどう評価されてゆくのだろうか」
というのは、どうなるのでしょう。
私たちは、その評価の先鞭をつける箇所に立っているわけです。
立っている場合か。