和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

段ボールの本。

2010-02-25 | 短文紹介
北村薫著「自分だけの一冊」(新潮新書)をパラパラと拾い読み。
そこに、こんな箇所。

「本は段ボールに入れたら、もう、おしまいです。
整理しようと思っているうちに、上に新しい本がどんどん積まれてしまう。
わたしは、うちにある本の背表紙が見えないと、探すのをあきらめて、素直に図書館に行きます。図書館にもある本なら、その方が圧倒的に早い。物理的な距離は現実の距離ではない。図書館にない本は、出来るだけ背表紙を出すようにしています。」(p43)

う~ん。段ボールの数が半端じゃないのだろうなあ。と、まずは思いうかべるのですが、ちょっと想像もつかない。そういう方がアンソロジーを編むというテーマで授業をしたというのですから、興味深くて読み始めたのですが、さらりとした読後感でした。もっとも期待の方が大きかった時は、いつもこんな感じになります。

「選句は創作だ――というのは、俳句の世界では普通にいわれることです。アンソロジーにも、そういうところがある。誰が水にもぐるかで、採って来る魚は変わる。そこが面白い。」(p164)

う~ん。さらりと書かれているのですが、ちょっとした箇所が、印象に残ります。
公開の授業ということで、ときどきは、言葉のスパイスを数行語るという感じなのでしょうか。
さてっと、はじめの方にこうあります。
ちなみに、北村薫氏は埼玉県生まれとあります。高校生の頃の話のなかに

「何百編か読むためには、まず、それを集めなければいけない。田舎町にいては無理です。そこで、神田に行くことになりました。本探しに出掛けたんです。初心者はよくやることですが、最初は神田駅で降りました。ところが、いわゆる神田の古書店街というのは、神保町にある。神田の駅前をうろうろしても、見当違いなんです。そんな失敗をしながら、古本屋巡りを覚えたわけです。どうもね、わたしは古本屋さんといわないと落ち着かない。古書店というと、よそよそしい気がします。親しみがない。・・・」(p22)

これなど、読みながら、つい徒然草を思い浮かべてしまいます。
ということで、「仁和寺(にんなじ)に、ある法師」(第五十二段)を引用。

「仁和寺に、ある法師、年寄るまで、岩清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。」

ここまでは、一人で、神田へ出かけるような感じでしょうか。

「極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人に会ひて、『年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何ごとかありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず』とぞ言ひける。
少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしきことなり。」

う~ん。神田へでかけて、得意になって友達に神田駅近辺の本屋のことを話している北村薫さんをつい思いうかべたりします。
コメント (1)
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