昨日の続き。
昨日尻切れトンボでしたので、
つづきを書きます。
柳田泉の遺稿「村井弦斎『日の出島』について」、そこで気になった箇所。
「・・・・弦斎にいはせると、今の文壇の文学ほど青年男女にとって毒を流すものはない、殊に最近の自然主義文学(けだし小杉天外、小栗風葉などの文学をさす)に至っては、その最も甚しいものである。然しその間、自ら魔界を脱した文学者もあるにはあるので、さしむき坪内逍遥の老実、幸田露伴の男性的意気、尾崎紅葉の鍛錬などは、特出したものというべきであろう。・・・・・・
これを一読してもわかることは、彼がいかに当時の文壇文学に不満であったかということであるが、凡そ文学は(殊に弦斎の書いたような新聞文学ではなお更であるが)、読者が一半、作者が一半、両者合わせてそれが成り立つ。従って時代の文学からいえば、文学思想の一半は作者のもの、即はち文壇のものとなるが、他の一半は読者たる国民の頭の中にある。弦斎の文学論は、文壇には反対しているが、国民の頭の方は代表している感じである。今の文学史は大体において文壇史であり、従って弦斎の文学論などは一顧もされていないが、然しこれでは国民感情がいつまでも無視され、その反映がとりあげられない。西洋の文学史の例をみても、そうした文学史は先駆的のもので、文学史という文学史は、必ず国民感情を反映している筈である。日本の文学史も、追々国民文学史となるであろうが、そのときは、こうした弦斎の文学論というものも、当時の国民感情を語るものとして口をきくことになろう。」(「柳田泉の文学遺産」第二巻p281~282)
この箇所を読んだ時に、ああこれはと私が連想したのは、
司馬遼太郎が谷沢永一へと書き送った短文。
それは谷沢永一著「完本 読書人の壺中」(潮出版社)の
本の最後に「月報」と題して掲載されております。
「私事のみを」と題した司馬遼太郎の3ページほどの文でした。
そこに柳田泉の指摘する「読者が一半、作者が一半、両者合わせてそれが成り立つ」を、別の言葉で語っております。
そのはじまりは、こうでした。
「唐突のようだが、ギリシャ語で象徴ということは割符(わりふ)のことだという。まことに情けないことだが、作家は割符を書く。他の片方の割符は読者に想像してもらうしかないのである。どんなすぐれた作品でも、五十%以上書かれることはない。」
ここから、司馬遼太郎は谷沢永一へと言及してゆくのでした。
つぎを続けます。
「小説は、いわば作り手と読み手が割符を出しあったときにのみ成立するもので、しかも割符が一致することはまずなく、だから作家はつねに不安でいるのである。(ひろい世間だから、自分とおなじ周波数をもった人が二、三千人はいるだろう)と私などは思い、それを頼りに生きてきた。しかし割符の全き一致など、満員の地下鉄のなかで自分とそっくりの顔や姿の人間をさがすようなもので、本来、ありえないことにちかい。
私の場合、谷沢永一氏がそれを示してくれたということを言いたいために、このように平素は口にしないことを書いているのである。私は私事や私情を文章にしないように心掛けてきたが、谷沢永一という人にふれねばならぬ場合にかぎって、このように手前味噌を書く。」
こうして、あとの二ページにつなげてゆきます。
これを受け取った谷沢永一氏については後日談があります。
司馬遼太郎が亡くなった際に、谷沢永一は
あらゆる機会をつかって(と私には思えました)
追悼文を書いておりました。
それがあとで一冊の本、谷沢永一著「司馬遼太郎」(PHP研究所)になった時に、あとがきでこう書いておりました。
「司馬遼太郎さん逝去の直後、私ごときに果して追悼文を草する資格ありやと、まことに忸怩たる思いを押さえ押さえしながら、それでもなんとか筆を進めるにあたって、心の支えとなってくれた貴重な一箇条がある。それは司馬さんの『私事のみを』と題する一文の存在であった。・・・・」(p230)
そして、そのあとがきで、あらためて「私事のみを」を引用しておりました。
せっかくですから、最後に「私事のみを」から、この箇所を
「だから、いつもこの道の者は割符を持って沙漠を歩いているようなものである。私の場合、幸福だった。沙上でにわかに出くわした人が谷沢永一氏で、『これ、あんたのだろう』といって、割符の片方を示してくれた。割符は、巨細となく一致していた。こんな奇蹟に、何人の作家が遭うだろう。」
昨日尻切れトンボでしたので、
つづきを書きます。
柳田泉の遺稿「村井弦斎『日の出島』について」、そこで気になった箇所。
「・・・・弦斎にいはせると、今の文壇の文学ほど青年男女にとって毒を流すものはない、殊に最近の自然主義文学(けだし小杉天外、小栗風葉などの文学をさす)に至っては、その最も甚しいものである。然しその間、自ら魔界を脱した文学者もあるにはあるので、さしむき坪内逍遥の老実、幸田露伴の男性的意気、尾崎紅葉の鍛錬などは、特出したものというべきであろう。・・・・・・
これを一読してもわかることは、彼がいかに当時の文壇文学に不満であったかということであるが、凡そ文学は(殊に弦斎の書いたような新聞文学ではなお更であるが)、読者が一半、作者が一半、両者合わせてそれが成り立つ。従って時代の文学からいえば、文学思想の一半は作者のもの、即はち文壇のものとなるが、他の一半は読者たる国民の頭の中にある。弦斎の文学論は、文壇には反対しているが、国民の頭の方は代表している感じである。今の文学史は大体において文壇史であり、従って弦斎の文学論などは一顧もされていないが、然しこれでは国民感情がいつまでも無視され、その反映がとりあげられない。西洋の文学史の例をみても、そうした文学史は先駆的のもので、文学史という文学史は、必ず国民感情を反映している筈である。日本の文学史も、追々国民文学史となるであろうが、そのときは、こうした弦斎の文学論というものも、当時の国民感情を語るものとして口をきくことになろう。」(「柳田泉の文学遺産」第二巻p281~282)
この箇所を読んだ時に、ああこれはと私が連想したのは、
司馬遼太郎が谷沢永一へと書き送った短文。
それは谷沢永一著「完本 読書人の壺中」(潮出版社)の
本の最後に「月報」と題して掲載されております。
「私事のみを」と題した司馬遼太郎の3ページほどの文でした。
そこに柳田泉の指摘する「読者が一半、作者が一半、両者合わせてそれが成り立つ」を、別の言葉で語っております。
そのはじまりは、こうでした。
「唐突のようだが、ギリシャ語で象徴ということは割符(わりふ)のことだという。まことに情けないことだが、作家は割符を書く。他の片方の割符は読者に想像してもらうしかないのである。どんなすぐれた作品でも、五十%以上書かれることはない。」
ここから、司馬遼太郎は谷沢永一へと言及してゆくのでした。
つぎを続けます。
「小説は、いわば作り手と読み手が割符を出しあったときにのみ成立するもので、しかも割符が一致することはまずなく、だから作家はつねに不安でいるのである。(ひろい世間だから、自分とおなじ周波数をもった人が二、三千人はいるだろう)と私などは思い、それを頼りに生きてきた。しかし割符の全き一致など、満員の地下鉄のなかで自分とそっくりの顔や姿の人間をさがすようなもので、本来、ありえないことにちかい。
私の場合、谷沢永一氏がそれを示してくれたということを言いたいために、このように平素は口にしないことを書いているのである。私は私事や私情を文章にしないように心掛けてきたが、谷沢永一という人にふれねばならぬ場合にかぎって、このように手前味噌を書く。」
こうして、あとの二ページにつなげてゆきます。
これを受け取った谷沢永一氏については後日談があります。
司馬遼太郎が亡くなった際に、谷沢永一は
あらゆる機会をつかって(と私には思えました)
追悼文を書いておりました。
それがあとで一冊の本、谷沢永一著「司馬遼太郎」(PHP研究所)になった時に、あとがきでこう書いておりました。
「司馬遼太郎さん逝去の直後、私ごときに果して追悼文を草する資格ありやと、まことに忸怩たる思いを押さえ押さえしながら、それでもなんとか筆を進めるにあたって、心の支えとなってくれた貴重な一箇条がある。それは司馬さんの『私事のみを』と題する一文の存在であった。・・・・」(p230)
そして、そのあとがきで、あらためて「私事のみを」を引用しておりました。
せっかくですから、最後に「私事のみを」から、この箇所を
「だから、いつもこの道の者は割符を持って沙漠を歩いているようなものである。私の場合、幸福だった。沙上でにわかに出くわした人が谷沢永一氏で、『これ、あんたのだろう』といって、割符の片方を示してくれた。割符は、巨細となく一致していた。こんな奇蹟に、何人の作家が遭うだろう。」