年末のテレビは見るものもなく。
録画を再生して見ております(笑)。
ナンシー関をとりあげたドラマも、
録画したまま見ていなかったので、
見れてよかった。
そういえば、新潮45の1月号。
そこに小田嶋隆の文がありました。
はじまりをすこし引用。
「2002年から2008年までの6年間、
私は、今はもうなくなってしまった
新聞社系の週刊誌で、テレビ批評の
コラムを連載していた。で、そのコラム
のための半ば職業的な義務感もあって、
一日中テレビをつけた部屋で暮していた。
無論、習慣としてテレビのスイッチをオンに
しているというだけの話で、私自身が、
四六時中画面に見入っていたわけではない。
が、それでも、オリジナルの思考の何分の一か
は、確実にテレビに持って行かれている。
そこのところが、あの機械の恐ろしいところだ。
テレビがついている部屋にいる人間は、
実質的にはろくにテレビを見ていないにも
かかわらず、テレビを見る以外のことが
何もできなくなる。つまり、私は、丸6年がとこ、
テレビ受像機の周辺機器みたいな存在になりさが
っていたわけだ。それが、テレビを消し去ってみると、
状況は一変する。テレビを消すと、明らかに、
自分の時間が増えるのだ。
一日は時間であふれている。・・・・ともかく、
時間はたっぷりできた。で、現在、その時間は、
ほぼまるごとネット依存に振り分けられている。」
これが小田嶋さんの文のはじまり。
私は、これだけで満腹(笑)。
なにやら、時間があふれだし、
続きを、読む気がしなくなる。
録画を再生して見ております(笑)。
ナンシー関をとりあげたドラマも、
録画したまま見ていなかったので、
見れてよかった。
そういえば、新潮45の1月号。
そこに小田嶋隆の文がありました。
はじまりをすこし引用。
「2002年から2008年までの6年間、
私は、今はもうなくなってしまった
新聞社系の週刊誌で、テレビ批評の
コラムを連載していた。で、そのコラム
のための半ば職業的な義務感もあって、
一日中テレビをつけた部屋で暮していた。
無論、習慣としてテレビのスイッチをオンに
しているというだけの話で、私自身が、
四六時中画面に見入っていたわけではない。
が、それでも、オリジナルの思考の何分の一か
は、確実にテレビに持って行かれている。
そこのところが、あの機械の恐ろしいところだ。
テレビがついている部屋にいる人間は、
実質的にはろくにテレビを見ていないにも
かかわらず、テレビを見る以外のことが
何もできなくなる。つまり、私は、丸6年がとこ、
テレビ受像機の周辺機器みたいな存在になりさが
っていたわけだ。それが、テレビを消し去ってみると、
状況は一変する。テレビを消すと、明らかに、
自分の時間が増えるのだ。
一日は時間であふれている。・・・・ともかく、
時間はたっぷりできた。で、現在、その時間は、
ほぼまるごとネット依存に振り分けられている。」
これが小田嶋さんの文のはじまり。
私は、これだけで満腹(笑)。
なにやら、時間があふれだし、
続きを、読む気がしなくなる。