加藤秀俊著「メディアの展開」の
第九章は「学問の流行――ひろがる文字社会」。
そのはじまりは、落語からでした。
「ご存じ、落語『小言幸兵衛』は、こんな語り口ではじまる。」
興味深いのは、『経典余師(けいてんよし)』を
とりあげてゆく箇所なのでした。
「なによりも画期的だったのは『経典余師』という
革命的な教科書の出現であった。」(p434)
「さきほどみたように、赤津寺子屋では『論語』
『大学』などが教科目のなかにはいっていた。
いうまでもなく、一般に『四書五経』とよばれる
むずかしい書物である。いったい、このむずかしい
書物をどんなふうに東北の寒村の児童たちは学んだ
のであろうか。漢字だらけの大陸の古典を原本で読む
ことなんか、ふつうの人間にはとうていできた相談ではない。
あの難解な『四書五経』をはじめとする哲学・倫理の書物を
どうやって読むことができたのか。簡単にいうと、
原本を手軽に読むためのアンチョコがあったからである。
そのアンチョコを『経典余師』という。・・・」(p435)
さてっと、
ここで加藤秀俊氏は二宮金次郎を登場させております。
「だいたい、この本の表題になっている『余師』というのは
『あり余るほどの先生』といったような意味で、これさえあれば
『独学』で大陸の古典を身につけることができる、という意味。
二宮金次郎が薪を背負いながら書物を読んでいる姿を模した
銅像はかつての小学校の校庭の風物だったが、あの金次郎が
手にしている本も『経典余師』であった可能性が高いという。
じっさいかれの図書購入記録をみると文化九年、二十六歳の
ときに金二朱でこの一冊を買ったことがあきらかだし、
『余師』の初版はそれよりも二十年もまえの天明六(1786)年
だから、あの銅像の少年期の尊徳が村の篤志家から『余師』を
借りて読んでいたとしてもふしぎではない。これだけ
懇切丁寧な解説のついた書物であれば『師匠いらず』であり、
寺子屋にゆかなくとも四書五経のたぐいは完全に読破する
ことが可能になったのである。それが爆発的な人気で
全国にゆきわたり・・・」(p439)
ちなみに、
この章のおわりに参考本の紹介があります。
そのなかに
鈴木俊幸著「江戸の読書熱」(平凡社選書)があり、
こちらの第三章は「『経典余師』というモデル」でした。
そのはじまりは、
「今ではあまり見かけなくなったが、筆者の子どものころには、
ほとんどどこの小学校の校庭にも二宮金次郎尊徳の銅像があった。
薪を背負って歩きながら書物(「大学」ということになっている
らしい)に見入る、まだ前髪を残したその姿は、さまざまな困難に
も負けず独学を自分に課して自己を向上させていこうという彼の
生き方を象徴、顕彰したものである。・・・
一般の人間が、師につかず、出版物によって一人独学で学問の
道に分け入ろうとすることなど、尊徳が生まれた頃には、
まずあり得なかったし、発想だにされなかったにちがいない。
それが、尊徳が人となるころにはあり得ないことではなくなって
いたのである。」(p145)
この「あり得ないことではなくなっていた」
時代を、加藤秀俊氏はゆっくりとたどってゆきます。
そして、第九章「学問の流行――ひろがる文字社会」の
最後は、こうでした。
「日本の『近代思想』を論ずる書物や論文をみると、
福澤諭吉の『学問のすすめ』がひろく庶民大衆によって
愛読された結果、匹夫野人にいたるまでが学問に興味を
もつようになりそこから社会の文明化がはじまった、
というふうな解釈がふつうになっているが、
わたしのみるところではそれはマチガイである。
福澤のあの本が明治のベストセラーであったことに
異論はないけれども、べつだん福澤によって『啓蒙』され
なくたって十八世紀の日本人はすでにたいへんな
勉強好きの民族になっていたのであった。
『学問のすすめ』はすでに高速道路を疾走している
自動車のアクセル・ペダルをさらに踏み込んだような
ものにすぎなかったのではないか、とわたしはおもっている。」
(p447)
第九章は「学問の流行――ひろがる文字社会」。
そのはじまりは、落語からでした。
「ご存じ、落語『小言幸兵衛』は、こんな語り口ではじまる。」
興味深いのは、『経典余師(けいてんよし)』を
とりあげてゆく箇所なのでした。
「なによりも画期的だったのは『経典余師』という
革命的な教科書の出現であった。」(p434)
「さきほどみたように、赤津寺子屋では『論語』
『大学』などが教科目のなかにはいっていた。
いうまでもなく、一般に『四書五経』とよばれる
むずかしい書物である。いったい、このむずかしい
書物をどんなふうに東北の寒村の児童たちは学んだ
のであろうか。漢字だらけの大陸の古典を原本で読む
ことなんか、ふつうの人間にはとうていできた相談ではない。
あの難解な『四書五経』をはじめとする哲学・倫理の書物を
どうやって読むことができたのか。簡単にいうと、
原本を手軽に読むためのアンチョコがあったからである。
そのアンチョコを『経典余師』という。・・・」(p435)
さてっと、
ここで加藤秀俊氏は二宮金次郎を登場させております。
「だいたい、この本の表題になっている『余師』というのは
『あり余るほどの先生』といったような意味で、これさえあれば
『独学』で大陸の古典を身につけることができる、という意味。
二宮金次郎が薪を背負いながら書物を読んでいる姿を模した
銅像はかつての小学校の校庭の風物だったが、あの金次郎が
手にしている本も『経典余師』であった可能性が高いという。
じっさいかれの図書購入記録をみると文化九年、二十六歳の
ときに金二朱でこの一冊を買ったことがあきらかだし、
『余師』の初版はそれよりも二十年もまえの天明六(1786)年
だから、あの銅像の少年期の尊徳が村の篤志家から『余師』を
借りて読んでいたとしてもふしぎではない。これだけ
懇切丁寧な解説のついた書物であれば『師匠いらず』であり、
寺子屋にゆかなくとも四書五経のたぐいは完全に読破する
ことが可能になったのである。それが爆発的な人気で
全国にゆきわたり・・・」(p439)
ちなみに、
この章のおわりに参考本の紹介があります。
そのなかに
鈴木俊幸著「江戸の読書熱」(平凡社選書)があり、
こちらの第三章は「『経典余師』というモデル」でした。
そのはじまりは、
「今ではあまり見かけなくなったが、筆者の子どものころには、
ほとんどどこの小学校の校庭にも二宮金次郎尊徳の銅像があった。
薪を背負って歩きながら書物(「大学」ということになっている
らしい)に見入る、まだ前髪を残したその姿は、さまざまな困難に
も負けず独学を自分に課して自己を向上させていこうという彼の
生き方を象徴、顕彰したものである。・・・
一般の人間が、師につかず、出版物によって一人独学で学問の
道に分け入ろうとすることなど、尊徳が生まれた頃には、
まずあり得なかったし、発想だにされなかったにちがいない。
それが、尊徳が人となるころにはあり得ないことではなくなって
いたのである。」(p145)
この「あり得ないことではなくなっていた」
時代を、加藤秀俊氏はゆっくりとたどってゆきます。
そして、第九章「学問の流行――ひろがる文字社会」の
最後は、こうでした。
「日本の『近代思想』を論ずる書物や論文をみると、
福澤諭吉の『学問のすすめ』がひろく庶民大衆によって
愛読された結果、匹夫野人にいたるまでが学問に興味を
もつようになりそこから社会の文明化がはじまった、
というふうな解釈がふつうになっているが、
わたしのみるところではそれはマチガイである。
福澤のあの本が明治のベストセラーであったことに
異論はないけれども、べつだん福澤によって『啓蒙』され
なくたって十八世紀の日本人はすでにたいへんな
勉強好きの民族になっていたのであった。
『学問のすすめ』はすでに高速道路を疾走している
自動車のアクセル・ペダルをさらに踏み込んだような
ものにすぎなかったのではないか、とわたしはおもっている。」
(p447)