和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

梅棹忠夫。町衆の系譜。

2019-07-23 | 本棚並べ
本棚から、梅棹忠夫著「研究経営論」(岩波書店)を取り出す。
線がひいてあり、たしかに私が読んだのだけど、
すっかり忘れている(笑)。

めずらしく、最後に蔵書印が押してある。
そうそう、以前に蔵書印をいただいて、
ちょっとの間、それを押していたことがあった。
「1990年4月29日読了」と、その印のページに、
鉛筆書きがしてあるのに、すっかり忘れている。
きっと、読んだあと、そのままに、次の本へと
そそくさ、未消化の読書だったに違いない(笑)。


ちなみに、この「研究経営論」は
梅棹忠夫著作集では、第22巻にありました。
第22巻の巻末コメント1は、小山修三氏。
小山修三といえば、「梅棹忠夫語る」での聞き手。

それでもって、「梅棹忠夫語る」をひらく。

小山】 ぼくもアメリカとかイギリスへ行って、
アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
パンフレットとか片々たるノートだとか、
そういうものもきちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館は
ペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようと
かっていう重要な情報だったりするんですな。
それがきちっと揃っている。

梅棹】 だいたい図書館は内容とはちがう。
わたしが情報ということを言い出したのは、
それがある。情報とは中身の話や。
(p80)


著作集第22巻の小山修三氏の巻末コメントにも
それに関したことが書かれておりました。
それは、民博の図書館についての箇所でした。

「たとえば、抜き刷り、パンフレット、ちらし、
ポスター、フィールドノートなどのいわゆる
非図書資料の処理がまったくできていないではないか。
梅棹はシステムがほぼ完成した時点(1984年)で
それに気づき、まだ修正が可能である、
ぜひ改良したいといいだした。
軌道修正は大変だったが使いやすいシステムができた。」
(p568)

小山修三氏の巻末コメントは、わかりやすい。
この機会にコメントからの断片を並べて引用。


「本巻のキーワードを二つあげるとすれば情報と経営である。
情報とは知的生産の産物であり、商品であるという考えは
梅棹がはやくから提唱していた。商品には、それをつくる
ための企画、設備、組織、資金、点検、販売が必要である。
研究者もやはり情報の生産者なのだから、その活動内容は
会社経営と通じる要素がおおいはずだ。」(p562)


「『国立民族学博物館における研究のありかたについて』は、
1976年に館員に対する講話として起草されたものである。
民博創設の精神と機構を説明するとともに、
新しい職場での任務をはたすための決意をせまるものであった。
そのため調子が高く、厳しい言葉がならんでいる。」(p563)


「梅棹には談話、対談、鼎談など原稿用紙に向かって書いたもの
ではない作品がすくなくない。なかでも共同討議は、自由な
討論のエッセンスを筆のたつ記者がまとめるという
斬新な手法であった。この『著作集』には納められなかったが、
梅棹の知的活動の記録として見過ごせないものだ。・・・・
筆記者や編者との呼吸などは磨きぬかれた技術そのものなのである。
梅棹のまわりにはその訓練を通過したスタッフがおおぜいいる。」
(p570)


小山修三氏のコメントの最後も、
この際なので引用しておきます。


「梅棹は学問遍歴以外の個人史を語らない。
だから私的な生活についてはほとんどうかがい知ることが
できないのである。しかし、人間の精神形成にとって、
幼・少年期の家族や友人との社会生活のありかたは
青年期以後の外からの刺激を受け取るための
プレコンディションとして重要だと思う。

わたしは・・梅棹が西陣の出であることが大きな要因と
なっていると思う。・・・マスコミへのデビュー作が
日本人の笑いの意味についてであったことをおもいだす。
愛嬌を擁護する学者などあまりきいたことがない。
この町衆の系譜をひく市民感覚がつちかわれたのは
幼少期以外にないと思う。

梅棹が日本を代表する思想家の一人として
大きな位置を占めることになった現在、
個人史を欠落したままおくわけにはいかないだろう。
いつか誰かが手をつけるはずだ。・・・・」
(p572)



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