「近衛ロンド」という名称がありました。
「近衛ロンドの『近衛』は、
会場にしていた京都大学楽友会館の前の通りが『近衛通り』で、
市電の停留所も『近衛通り』。それにちなんでつけられた。
『ロンド』はエスペラント語で、サークルとかグループをさす
言葉である。・・・じつは『京都大学人類学研究所』というのが
この会の正式名称・・」
(p111・藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」講談社)
この前のページに、
「ロンドは若い人たちを中心にした人類学の勉強会である。
・・・ロンドの誕生には、梅棹家の金曜会の集まりが一役かっていた。
先生(梅棹)は人文にこられる五、六年前から自宅の応接間を解放し
・・・集まってくるのは、探検家や山岳部に関係のある人、
人類学に関心のある人が多いらしかった。そのころはまだ
先生(梅棹)は大阪市大におつとめだったが、市大の学生さん
というより、京大の人が断然多く、ほかに立命館や同志社の人も
まじっていた。・・・どこにも属していない変わり種もいたが、
どの人もそれなりに人類学に関心をもっていた。
そういう人がかなりいるのに、京都大学をはじめ、
関西の大学には人類学科がなく、人類学を志す人は
東京や名古屋の大学に行かなければならない。
そんな状態だったので、関西にいて人類学に興味をもつ
若人たちが、類は友を呼ぶで梅棹サロンに集ったのだろう。
金曜会の席で、人類学の勉強会をつくろうという話が出て、
梅棹先生が京大へこられるのをきっかけに会を発足させようと、
話がまとまったらしい。それが近衛ロンドで、
有志がつどいあってできた、いわば自主講座なのである。
会の運営は、会員たちの会費でまかなわれている。」
(p110~111)
さてっと、梅棹忠夫著「研究経営論」(岩波書店)を
ひらく。そこに「近衛ロンドの五年間」と題した箇所がある。
そこから引用。
「じつは、そのすこしまえから、東京で、やはりこれと
おなじような青年人類学者のサークルがあったようにきいている。
京都のは、いわばその関西版であったのかもしれない。
じっさい民族学協会のおえらがたから、
東京の青年人類学会(?)にならって、
京都にもグループをつくってはどうか、
というサジェスチョンがあったようだ。
補助金をだしてもよい、という話もきいた。
けっこうな話なのだが、このへんの事情が、
逆に伝統的な関西モンロー主義と微妙に抵触して、
後年の、この会および民族学協会関西支部の、
エネルギー低下の原因となった。といえないこともない。
関西、とくに京都というところは、
他所からの指図でうごく代理人的なもの
が発生することを極度にきらうのである。
今日においては、
民族学協会関西支部はそのあとかたもない。
民族学会の研究集会はおこなわれているが、
それは、東京集会と対等の京都集会なのであって、
支部活動ではない。・・・」(p21~22)
うん。「東京と京都」といえば、
もどって、「知的生産者たちの現場」のあとがきに、
出版社側からみた「東京と京都」への視点が触れられております。
「・・本文にはかきませんでしたが、
出版社のかたたちからおききしたことで、
印象に残っているのは、東京と京都のちがいということでした。
あるいは、東大の先生がたと、京大、
とくに人文の先生がたとのちがいというべきかもしれません。
たとえば、出版社がある本の企画をたてるとします。
執筆者が東大系の先生がたの場合は、
編集者の仕事は、わりに簡単だというのです。
つまり、どなたか大先生おひとりにおねがいして、
親分の『おゆるし』をいただきますと、
あとはお弟子さんがたのひとりひとりを
たずねまわらなくも、執筆をひきうけてもらえるのだそうです。
ところが、京都ではそうはいきません。
教授の先生がおひきうけになっても、
それはその先生ひとりがOKしたということで、
若い先生がたにも、執筆者ひとりひとりの
承諾がなくてはかいてもらえないというのです。
京都は、いわゆる親分・子分的な人間関係で
うごいている社会ではないからでしょう。」
(p287~288)
はい。東京と京都の、現場の話を、
さりげなく聞けるありがたさ(笑)。
「近衛ロンドの『近衛』は、
会場にしていた京都大学楽友会館の前の通りが『近衛通り』で、
市電の停留所も『近衛通り』。それにちなんでつけられた。
『ロンド』はエスペラント語で、サークルとかグループをさす
言葉である。・・・じつは『京都大学人類学研究所』というのが
この会の正式名称・・」
(p111・藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」講談社)
この前のページに、
「ロンドは若い人たちを中心にした人類学の勉強会である。
・・・ロンドの誕生には、梅棹家の金曜会の集まりが一役かっていた。
先生(梅棹)は人文にこられる五、六年前から自宅の応接間を解放し
・・・集まってくるのは、探検家や山岳部に関係のある人、
人類学に関心のある人が多いらしかった。そのころはまだ
先生(梅棹)は大阪市大におつとめだったが、市大の学生さん
というより、京大の人が断然多く、ほかに立命館や同志社の人も
まじっていた。・・・どこにも属していない変わり種もいたが、
どの人もそれなりに人類学に関心をもっていた。
そういう人がかなりいるのに、京都大学をはじめ、
関西の大学には人類学科がなく、人類学を志す人は
東京や名古屋の大学に行かなければならない。
そんな状態だったので、関西にいて人類学に興味をもつ
若人たちが、類は友を呼ぶで梅棹サロンに集ったのだろう。
金曜会の席で、人類学の勉強会をつくろうという話が出て、
梅棹先生が京大へこられるのをきっかけに会を発足させようと、
話がまとまったらしい。それが近衛ロンドで、
有志がつどいあってできた、いわば自主講座なのである。
会の運営は、会員たちの会費でまかなわれている。」
(p110~111)
さてっと、梅棹忠夫著「研究経営論」(岩波書店)を
ひらく。そこに「近衛ロンドの五年間」と題した箇所がある。
そこから引用。
「じつは、そのすこしまえから、東京で、やはりこれと
おなじような青年人類学者のサークルがあったようにきいている。
京都のは、いわばその関西版であったのかもしれない。
じっさい民族学協会のおえらがたから、
東京の青年人類学会(?)にならって、
京都にもグループをつくってはどうか、
というサジェスチョンがあったようだ。
補助金をだしてもよい、という話もきいた。
けっこうな話なのだが、このへんの事情が、
逆に伝統的な関西モンロー主義と微妙に抵触して、
後年の、この会および民族学協会関西支部の、
エネルギー低下の原因となった。といえないこともない。
関西、とくに京都というところは、
他所からの指図でうごく代理人的なもの
が発生することを極度にきらうのである。
今日においては、
民族学協会関西支部はそのあとかたもない。
民族学会の研究集会はおこなわれているが、
それは、東京集会と対等の京都集会なのであって、
支部活動ではない。・・・」(p21~22)
うん。「東京と京都」といえば、
もどって、「知的生産者たちの現場」のあとがきに、
出版社側からみた「東京と京都」への視点が触れられております。
「・・本文にはかきませんでしたが、
出版社のかたたちからおききしたことで、
印象に残っているのは、東京と京都のちがいということでした。
あるいは、東大の先生がたと、京大、
とくに人文の先生がたとのちがいというべきかもしれません。
たとえば、出版社がある本の企画をたてるとします。
執筆者が東大系の先生がたの場合は、
編集者の仕事は、わりに簡単だというのです。
つまり、どなたか大先生おひとりにおねがいして、
親分の『おゆるし』をいただきますと、
あとはお弟子さんがたのひとりひとりを
たずねまわらなくも、執筆をひきうけてもらえるのだそうです。
ところが、京都ではそうはいきません。
教授の先生がおひきうけになっても、
それはその先生ひとりがOKしたということで、
若い先生がたにも、執筆者ひとりひとりの
承諾がなくてはかいてもらえないというのです。
京都は、いわゆる親分・子分的な人間関係で
うごいている社会ではないからでしょう。」
(p287~288)
はい。東京と京都の、現場の話を、
さりげなく聞けるありがたさ(笑)。