相撲がはじまりました(笑)。
ついつい忘れるのですが、録画して、
夕食を食べながら、再生して見ております。
昨日は、平幕大栄翔が、横綱白鵬をやぶり拍手。
さてっと、対談「ふれあう回路」に、
相撲をとりあげた箇所がありました。
それはアメリカ哲学のデューイを語ったあとでした。
せっかくなので、そのデューイに関する箇所も
ちょこっと、引用してから。
「・・・デューイは凡庸です。35歳で死んだら、
仕事らしい仕事はゼロだったでしょうね。
すさまじいものですよ、その凡庸さというのは。
その凡庸な人の偉大というのは、年を食って、
だんだんに物事を記憶したり、新しいことを考えるのが不得手
になってきた私のような状態で初めて見えてくる(笑)。
私は15、6歳のときは、デューイなんて、と思ってたね。
だけど今や63歳になると、デューイは偉い、
デューイも偉いと思うようになった。(p43)
このあとに、いよいよ鶴見さんは、
宮本徳蔵著「力士漂泊」をとりあげるのでした。
「この本はすもうを勝ち負けで見ていない。
すもうを勝ちと負けで見たら、あんなもの
とにかくへんなものなんですよ。
勝ち負けを超える形として見せる、
その形をさらに作為を含めて見世物化するのが、
花ずもうのときのしょっきりずもうで、
栃錦と出羽錦はしょっきりずもうをやったでしょう。
ああいう感じのものなんだけれども、
それがすもうのなかで自然に出てくる時、たとえば
下手(したて)と上手(うわて)のなげの打ち合いで、
最後に運を天に任せる形が出たときに感動するのですよ。
もうあとの一瞬というのは、どっちが先に落ちるかわからない。
完全に両者未分化のある形になっていて、別々ではなく、
もうさいころは投げられている。ああいうときに、
その形が心の琴線に触れる。
それはどちらがしかけて勝ったという問題ではなくて、
両方の力があって、あるひとつの形になっている。
あれは『やりとり』なんですね。
あそこからすもうを見るということを、
日本人はいままでずっとやってきた。・・・
ある形ができるんだ。そのときに両者あい合わさって、
あるメッセージを、人生というもの、社会というものは
こういうものなんだというのを、なまの形で観客に訴えて
くる力があるでしょう。そのおもしろさだな。
チャンス・ファクターとか不確実性とかいうものを含めての、
人生のありかたをつたえる。そこをひとつの単位として見たい
・・・・(p44~45)
はい。これからどういうわけか、
老人と子どもの話になってゆくのですが、
引用が長くなりますので、このへんで失礼します。
うん。私はまだ宮本徳蔵著「力士漂泊」を読んでいない。
本棚にはある(笑)。