「歎異抄」は、以前から読めずにいました。
それなのに、本棚をみると、古本の
ワイド版岩波文庫「歎異抄」が並んでる。
100~200円だと、ついつい買って4冊(笑)。
さてっと、歎異抄は、最初から読もうとすると、
わたしには、歯が立たない。うん。うしろから、
読み始めればいいのかと、最近思いました。
そこに、京都で法然上人といた頃の
親鸞と上人の姿がありました。
ここでは、増谷文雄訳で
「法然上人のころ、
お弟子のおおぜいいたなかにも、
おなじ信心のものは少なかったのであろうか。
親鸞は、仲間のあいだで、
議論をしたことがあったという。その理由は、
『善信(親鸞)の信心も、
上人(法然)の御信心も、ひとつである』
といったところ、勢観房、念仏房などという同輩たちが、
『もってのほか』と言いあらそい、
『どうして善信房の信心が上人の御信心とひとしかろうか』
ということであった。それで、親鸞は、
『もしわたしが、上人の広大な智慧、学才に
ひとしいといったら、けしからぬことであろうが、
往生の信心においては、まったく異なるところはない。
ただひとつである。』
と返答した。
それでも、なお、『どうしてそんな訳があろうか』
という疑問、論難があって、結局のところ、
上人のまえで、いずれが正しいかを決めよう
ということになり、事の詳細を申しあげた。
ところが法然上人の仰せは、
『源空(法然)の信心も如来からいただいた信心である。
善信房の信心も如来からたまわった信心である。
だから、ただひとつである。
別の信心であられる人は、おそらくは、
源空がまいるであろう浄土へはまいるまい』
ということであった。・・・・」
文庫「歎異抄」の、いちばん最後には、
釈蓮如御判として「親鸞の流罪の記録」があり、
その記録について、岩波文庫では
「この親鸞の流罪の記録は、何の為に付記せられたかは
明らかでない。写本の中には、この付記のないものもある
のである。今は定本に順うて編入した。」とあります。
では、その記録を一部引用してみます。
京都からの流罪の記録です。
「法然聖人、ならびに御弟子七人流罪。
また御弟子四人死罪にをこなわるるなり
聖人は土佐国番田という所へ流罪・・生年76歳なり
親鸞は越後国・・生年35歳なり
・・・・・・・・・ 」
これが、法然上人との最後の別れとなりました。
関東から京都へもどるのは、親鸞の60歳頃です。
増谷文雄氏は対談で、親鸞の京都を語っております。
「迷いですね。それが京都に帰ってからは、
もう露迷っておりませんな。そういう意味で、
私は・・・親鸞の絶頂は京都だと思うのですよ。
京都に帰られて・・・70を越してからの親鸞が
われわれの親鸞だという感じがしますね。
それが『歎異抄』に出ておる親鸞でしょう。」
(「日本の思想」第3巻親鸞集別冊対談・筑摩書房)
うん。ここまできたので、
増谷文雄氏の「親鸞の思想」のはじまりの箇所を引用。
「いま親鸞の思想という課題をまえにして、
じっと眼をとじて心のなかに描きだすその人の
イメージは、いつものように、また老いたる親鸞
のすがたである。・・・・・
たとえば、わたしもまた好んで『歎異抄』を読む。
繰りかえし繰りかえしして読む。その時、その中で、
あの鋭いことばをもって、わたしに語りかけてくる
親鸞は、すでに老いたるその人である。・・・・・・
さらにいえば・・・『三帖和讃』すなわち、
『浄土和讃』、『浄土高僧和讃』、ならびに、『正像末法和讃』
の三部作に着手したのも、関東の伝道をおえて、
京都に帰ってから十年も経ってからのこと。
もっと正確にいえば、『浄土和讃』と『浄土高僧和讃』が
成立したのは、その76歳の春のこと。
『正像末法和讃』をしたためおわったのは、
もう86歳の秋のおわりのことであった。
親鸞の伝記『御伝鈔』を制作した覚如(本願寺第三代)の
筆は、京都に帰ってからの親鸞をつぎのように記している。
『聖人故郷に帰って往事をおもふに、
年々歳々夢のごとし。幻のごとし。
長安洛陽(京都)の栖(すみか)も・・・
扶風(右京)、馮翊(左京)ところどころに
移住したまひき。五条西洞院わたり・・
しばらく居をしめたまふ』
それは、かなり修飾された文章であるが、
なお、京都におけるその人の晩年の生活を
うかがわしめるに足りる。それは、その居さえも
定まらぬ飄々たる隠棲の生活であったにちがいない。
・・・・・・
この隠棲の人は、それからさらに30年にちかい
年月を生きつづけ・・・その隠棲のなかにあって、
あるいは、関東からはるばる訪ねてきたった人々
にむかって懇々と説いたことば、あるいは、
関東から問いの書状に心をこめて書きおくった書簡、
あるいは、無智文盲の彼らのためにと、老眼を
しばたたきながら筆をとった『和讃』や、『文意(もんい)』
と称せられる短文など。それらが、いつのまにか、
この隠棲の人をして、計らずして、すぐれた大きな
仕事を果たさしめていたのである。・・・・」
(「日本の思想」3。親鸞集p3~4)
はい。親鸞の京都。ここからなら、
親鸞の本に、少しでも近づけるような気がする。
このルートなら、チャレンジできるかもしれない。