和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

朋(とも)あり遠方より来(きた)る。

2021-01-05 | 本棚並べ
昭和23年に出版された猪飼九兵衛著「方言と大阪」(梅田書房)の
表紙カバーは和紙に芹澤圭介の図案自染。
そのカバーだと、こわごわページをめくることになるので、
はずして表紙カバーを額にいれて、壁に掛けました。
額にいれても、本のカバーはカバーですから、
題名と著者名とが、芹澤圭介氏の独特の図案で染められております。
ということで、どうしても『方言と大阪』という言葉に目がゆく。

そういえばと、本棚からとりだしたのは、
外山滋比古著「思考力の方法 聴く力篇」(さくら舎・2015年)。
一度、このブログでも引用したことがある箇所でした。
外山氏は「小中学生の作文コンクール」の審査員をしたことが
あったそうです。

「前後、10年くらいはその仕事をした。・・・
かつて経験したことで忘れられないことがある。

何かというと、関西のこどものほうが首都圏、その他の
地方のこどもたちより、作文がうまいということである。

もちろん作品は全国各地から寄せられる。審査する側としては、
応募者の出身などには目もくれない。そうして何人かの審査員の
評価を集計すると、上位入賞者は関西圏に集中するのである。

たいへんおもしろい結果だが、コンクールを主催するのは
全国紙だったりして、こういう地域的偏りは学業上も好ましくない、
と考えるのも無理からぬところである。
事務局の希望を汲んで東京、関東を中心に何名かを入賞者に入れる
ということが、毎年のようにおこなわれた。

そういうことは、小学校低学年においていちじるしい。
学校で国語の勉強を重ねて、高学年になると、先のような
西高東低はそれほどはっきりしなくなる。

低学年の関西の小学生は、生き生きした話ことばで
生き生きした文章にする。その点で、東のほうのこどもは及ばない。

しかし、学校で話すことばは棚上げして、文章を読ませることだけ
を教育していると、関西のこどもも関東のこどもと同じように、
知識のことばで文章を書くようになって、おもしろくない作文を
書くようになる、というわけであろう。・・・」(p182~183)

はい。外山滋比古氏は関東大震災の年に生れております。
ですから、この本は90歳以上になってからの本ですので、
こういうコンクールの裏側も自由に語っておられるのでしょう。

ちなみに、外山滋比古氏は昨年亡くなられました。
1923年11月3日生れ。2020年7月30日に亡くなる。

それはそうと、この本からの引用をつづけたいのですが、
いかんせん、ダラダラ引用しそうです(笑)。
ですから、ここは、この本の最後から引用することに。

「友人も、遠くにいる友がいい。論語に
『朋有り遠方より来(きた)る。亦(ま)た楽しからずや』
とあるが、遠い友がわれわれの人生を大きくしてくれることを
いまの人間は知らないかのようである。
  ・・・・・・・

ことばの力を信じる人は、
『聴く話す』ことばのかかえる考えが、
『読む書く』ことばの思考とはかなり大きく異なって
いることに気づくはずである。

聴く話すことばは、いかにも浅く、情緒的なように考えられながら、
ものごとを考えることのできる人にとっては、知的なするどさをもっていて、
読む書くことば、本の中のことばに、すこしも後れをとらないのである。

聴くことば、話すことば、読むことば、書くことば。
これをバラバラにしているために、ことばの力が
どれほど弱まっているかしれない。
これを、めいめいの生活のなかでしっかり結びつけることができれば、
ことばは真に人間と同じくらい大きなものになる。
ことば自体も、それを求めているはずである。
 ・・・・・」(p204~205)


うん。以前、幸田文や幸田玉のことばで、
東京の言葉を、たのしめるのじゃないかと思ったのですが、
関連の本が、古本では私はさがせなかった。
けれども、関西には、それ関連の古本が、
案外に簡単に探しだせるような気がします。
はい。芹澤圭介の表紙カバーの額をみながら、
そんなことへと、たのしみがひろがります。

今年は、この関連で本が読めますように。


コメント (2)
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