高島俊男著「漱石の夏やすみ」(ちくま文庫)
出久根達郎著「漱石先生の手紙」(講談社文庫)
あとは、地域的に整理されている市原善衛著「芥川龍之介 房総の足跡」(文芸社)
2007年の夏は、この3冊を結びつけたくなりました。
明治22年(1889年)夏目漱石23歳の時。
第一高等中学校の生徒だった漱石は、その年の夏やすみを旅行にすごしました。
そして、房総旅行の見聞をしるした「木屑録(ぼくせつろく)」をまとめます。
大正3年(1914年)芥川龍之介22歳の時。
東京帝国大学の学生だった芥川は、千葉県の一宮を訪れております。
その大正3年は夏目漱石の新聞連載「こころ」が書かれております。
ちなみに、漱石はその2年後の大正5年12月9日に死去しております。
ここで私は、二人の夏やすみに補助線を引いてみたくなりました。
まず、簡単な類似点ということで、書いてみますと、
「漱石が房総旅行の経験を断片的にもちいた作品に『草枕』『門』『こころ』がある。うち『草枕』にはこうある。【昔し房州を館山から向ふへ突き抜けて、上総から銚子まで浜伝(はまづた)ひに歩行(あるい)た事がある。】また『門』にはこうある。【・・・保田から向ふへ突切つて、上総(かづさ)の海岸を九十九里伝ひに、銚子迄来たが、そこから思ひ出した様に東京へ帰つた。】これらからほぼ、経験そのままと見てよかろう。」(高島俊男著「漱石の夏やすみ」・文庫p48)ということは、芥川が滞在した一宮町を漱石は歩いていたのでした。
ここらで、高島俊男訳の木屑録を引用してみます。「極力よみやすく、調子よくとこころがけた」という高島さんの訳の最初の方にこんな箇所があります。
「房州旅行中、おれは毎日海水浴をした。日にすくなくも二三べん、多くば五たびも六たびも。海のなかにてピヨンピヨンと、子どもみたいにとびはねる。これ食欲増進のためなり。あきれば熱砂に腹ばひになる。温気腹にしみて気持よし。かかること数日、髪毛だんだん茶色になり、顔はおひおひ黄色くなつた。さらに十日をすぎて、茶色は赤に、黄色は黒にと変色せり。鏡をのぞきこれがおれかと、アツケにとられたり。」
どうやらはじめの内房の保田海岸での海水浴のようです。
それでは、外房の一宮での芥川の海水浴はどうだったか。
それを知るのに、友人・浅野三千三への手紙があります。
「君は僕より一級上に堀内利器と云う、専売特許の井戸掘り器械のような名の男がいたのを知っているでしょう。一の宮はあの堀内の故郷です。堀内の故郷だけに又、海も恐ろしく未開です。海水浴と云うのは名ばかりで、実は波にぶんなぐられにはいるのだから堪りません。海水浴場にある一宮町役場の掲示にも、泳げとは書いてないで背部を波にうたすべしと書いてあります。悪くするとひっくりかえされて水をのみます。始めての日などは、かなり塩からい水をのまされました。(大正3年7月28日付)」
芥川は大正4年に『羅生門』を発表します。
その年の11月末か12月初めの木曜日に、
芥川龍之介・久米正雄の二人は初めて漱石宅を訪れます。
次の大正5年2月に芥川は「鼻」を発表します。
すると2月19日付で夏目漱石から「鼻」賞讃の手紙が芥川へと届くのです。
この時、芥川は25歳。その7月に東京帝国大学英文学科を成績二番で卒業します。
8月、久米正雄と千葉県一の宮に遊びに行き、九月上旬まで滞在します。
ここで、ちょいと寄り道して、高島俊男さんの見解を引用したいと思います。
「漱石の作品を見ると、できばえのよしあしとは別に、漱石が、おれはこういうことをやっているときが一番たのしいなあ、と思いながらつくったことがつたわってくるものがいくつもある。絵や書はたいがいそうである。俳句も、せっせとつくっては病気の子規におくって、子規にわるくちをいわせてたのしんでいた時期はそうである。小説では『草枕』と『吾輩は猫である』が顕著にそうである。・・・・そして、最初の作品である木屑録と、最晩年『明暗』を書いていた時期に毎日つくっていた詩、これがそうである。漱石は、それをつくっている時間、つくっている過程をたのしんでいる。絵がそうであるように、また『草枕』がそうであるように。・・・」(「漱石の夏やすみ」文庫・p156~157)
もどって、大正5年は漱石の亡くなる年です。
その5月26日から「明暗」の連載が始まっています。
その夏。芥川・久米から漱石宛に葉書が来たのです。
その返事を8月21日に漱石は書いておりました。
それでは、その手紙を引用します。
「あなたがたから端書がきたから奮発して此手紙を上げます。僕は不相変(あいかわらず)『明暗』を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快楽、器械的、此三つをかねてゐます。存外涼しいのが何より仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々出来ません。厭になればすぐ已めるのだからいくつ出来るか分りません。あなた方の手紙を見たら石印云々とあつたので一つ造りたくなつてそれを七言絶句に纏めましたから夫を披露します。・・・
尋仙未向碧山行
住在人間足道情
明暗雙雙三萬字
撫摩石印自由成
(・・・・明暗雙雙といふのは禅家で用ひる熟字であります。三萬字は好加減です。・・・結句に自由成とあるのは少々手前味噌めきますが、是も自然の成行上已を得ないと思つて下さい)一の宮といふ所に志田といふ博士がゐます。山を安く買つてそこに住んでゐます。景色の好い所ですが、どうせ隠遁するならあの位ぢや不充分です。もつと景色がよくなけりや田舎へ引込む甲斐はありません。
勉強をしますか。何か書きますか。・・・僕も其積であなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。ただ牛のように図々しく進んで行くのが大事です。・・
今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでせう。
私はこんな長い手紙をただ書くのです。永い日が何時迄もつづいて何うしても日が暮れないといふ証拠に書くのです。そういふ心持の中に入つてゐる自分を君等に紹介する為に書くのです。夫からそういふ心持でゐる事を自分で味つて見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の声で埋つてゐます。 以上
夏目金之助
八月二十一日
久米 正雄様
芥川龍之介様 」
ここでもう一度、高島訳「木屑録」へともどり、
その最後の「自嘲、木屑録のおしまひに」を引用して終わります。
白い眼で見て世間と無縁
つむじまがりは八方不評
時勢に背をむけ時人の悪口
古書を読んでは古人をあざける
老馬のごとくにのろまでおろか
セミのぬけがら薄くてからつぽ
なんにもなけれど自然が好きで
海山ばかりが思はれる
出久根達郎著「漱石先生の手紙」(講談社文庫)
あとは、地域的に整理されている市原善衛著「芥川龍之介 房総の足跡」(文芸社)
2007年の夏は、この3冊を結びつけたくなりました。
明治22年(1889年)夏目漱石23歳の時。
第一高等中学校の生徒だった漱石は、その年の夏やすみを旅行にすごしました。
そして、房総旅行の見聞をしるした「木屑録(ぼくせつろく)」をまとめます。
大正3年(1914年)芥川龍之介22歳の時。
東京帝国大学の学生だった芥川は、千葉県の一宮を訪れております。
その大正3年は夏目漱石の新聞連載「こころ」が書かれております。
ちなみに、漱石はその2年後の大正5年12月9日に死去しております。
ここで私は、二人の夏やすみに補助線を引いてみたくなりました。
まず、簡単な類似点ということで、書いてみますと、
「漱石が房総旅行の経験を断片的にもちいた作品に『草枕』『門』『こころ』がある。うち『草枕』にはこうある。【昔し房州を館山から向ふへ突き抜けて、上総から銚子まで浜伝(はまづた)ひに歩行(あるい)た事がある。】また『門』にはこうある。【・・・保田から向ふへ突切つて、上総(かづさ)の海岸を九十九里伝ひに、銚子迄来たが、そこから思ひ出した様に東京へ帰つた。】これらからほぼ、経験そのままと見てよかろう。」(高島俊男著「漱石の夏やすみ」・文庫p48)ということは、芥川が滞在した一宮町を漱石は歩いていたのでした。
ここらで、高島俊男訳の木屑録を引用してみます。「極力よみやすく、調子よくとこころがけた」という高島さんの訳の最初の方にこんな箇所があります。
「房州旅行中、おれは毎日海水浴をした。日にすくなくも二三べん、多くば五たびも六たびも。海のなかにてピヨンピヨンと、子どもみたいにとびはねる。これ食欲増進のためなり。あきれば熱砂に腹ばひになる。温気腹にしみて気持よし。かかること数日、髪毛だんだん茶色になり、顔はおひおひ黄色くなつた。さらに十日をすぎて、茶色は赤に、黄色は黒にと変色せり。鏡をのぞきこれがおれかと、アツケにとられたり。」
どうやらはじめの内房の保田海岸での海水浴のようです。
それでは、外房の一宮での芥川の海水浴はどうだったか。
それを知るのに、友人・浅野三千三への手紙があります。
「君は僕より一級上に堀内利器と云う、専売特許の井戸掘り器械のような名の男がいたのを知っているでしょう。一の宮はあの堀内の故郷です。堀内の故郷だけに又、海も恐ろしく未開です。海水浴と云うのは名ばかりで、実は波にぶんなぐられにはいるのだから堪りません。海水浴場にある一宮町役場の掲示にも、泳げとは書いてないで背部を波にうたすべしと書いてあります。悪くするとひっくりかえされて水をのみます。始めての日などは、かなり塩からい水をのまされました。(大正3年7月28日付)」
芥川は大正4年に『羅生門』を発表します。
その年の11月末か12月初めの木曜日に、
芥川龍之介・久米正雄の二人は初めて漱石宅を訪れます。
次の大正5年2月に芥川は「鼻」を発表します。
すると2月19日付で夏目漱石から「鼻」賞讃の手紙が芥川へと届くのです。
この時、芥川は25歳。その7月に東京帝国大学英文学科を成績二番で卒業します。
8月、久米正雄と千葉県一の宮に遊びに行き、九月上旬まで滞在します。
ここで、ちょいと寄り道して、高島俊男さんの見解を引用したいと思います。
「漱石の作品を見ると、できばえのよしあしとは別に、漱石が、おれはこういうことをやっているときが一番たのしいなあ、と思いながらつくったことがつたわってくるものがいくつもある。絵や書はたいがいそうである。俳句も、せっせとつくっては病気の子規におくって、子規にわるくちをいわせてたのしんでいた時期はそうである。小説では『草枕』と『吾輩は猫である』が顕著にそうである。・・・・そして、最初の作品である木屑録と、最晩年『明暗』を書いていた時期に毎日つくっていた詩、これがそうである。漱石は、それをつくっている時間、つくっている過程をたのしんでいる。絵がそうであるように、また『草枕』がそうであるように。・・・」(「漱石の夏やすみ」文庫・p156~157)
もどって、大正5年は漱石の亡くなる年です。
その5月26日から「明暗」の連載が始まっています。
その夏。芥川・久米から漱石宛に葉書が来たのです。
その返事を8月21日に漱石は書いておりました。
それでは、その手紙を引用します。
「あなたがたから端書がきたから奮発して此手紙を上げます。僕は不相変(あいかわらず)『明暗』を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快楽、器械的、此三つをかねてゐます。存外涼しいのが何より仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々出来ません。厭になればすぐ已めるのだからいくつ出来るか分りません。あなた方の手紙を見たら石印云々とあつたので一つ造りたくなつてそれを七言絶句に纏めましたから夫を披露します。・・・
尋仙未向碧山行
住在人間足道情
明暗雙雙三萬字
撫摩石印自由成
(・・・・明暗雙雙といふのは禅家で用ひる熟字であります。三萬字は好加減です。・・・結句に自由成とあるのは少々手前味噌めきますが、是も自然の成行上已を得ないと思つて下さい)一の宮といふ所に志田といふ博士がゐます。山を安く買つてそこに住んでゐます。景色の好い所ですが、どうせ隠遁するならあの位ぢや不充分です。もつと景色がよくなけりや田舎へ引込む甲斐はありません。
勉強をしますか。何か書きますか。・・・僕も其積であなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。ただ牛のように図々しく進んで行くのが大事です。・・
今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでせう。
私はこんな長い手紙をただ書くのです。永い日が何時迄もつづいて何うしても日が暮れないといふ証拠に書くのです。そういふ心持の中に入つてゐる自分を君等に紹介する為に書くのです。夫からそういふ心持でゐる事を自分で味つて見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の声で埋つてゐます。 以上
夏目金之助
八月二十一日
久米 正雄様
芥川龍之介様 」
ここでもう一度、高島訳「木屑録」へともどり、
その最後の「自嘲、木屑録のおしまひに」を引用して終わります。
白い眼で見て世間と無縁
つむじまがりは八方不評
時勢に背をむけ時人の悪口
古書を読んでは古人をあざける
老馬のごとくにのろまでおろか
セミのぬけがら薄くてからつぽ
なんにもなけれど自然が好きで
海山ばかりが思はれる
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