和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

柳悦多と地震。

2009-01-25 | 地震
鶴見俊輔著「柳宗悦」(平凡社選書。「続鶴見俊輔集4」筑摩書房。)に、
「柳宗悦にとって事実上の長兄にあたる柳悦多(よしさわ)(1882~1923)」への記述があります。
「柳悦多は嘉納塾にあずけられていたこともあり、講道館で柔道を修行し、すじがいいことを認められていた。遠洋漁業という仕事の都合上千葉県館山に住んでいたので、遠洋航海のあいまに安房中学の柔道を指導していた。1923年(大正12年)9月1日は、この中学の柔道の発会式にあたっており、師範の悦多は、地震の起こった時、講演をしている最中だった。彼は生徒が全員無事に外に出るように指導した後で、自分が出ようとした時に壁がおち、その下じきになって死んだ。」(平凡社選書・p38)

という記述があります。
ところで、「創立八十年史」(千葉県立安房高等学校)に
その様子が記録されておりました。
「9月1日、第二学期の始業式も終り、大半の生徒は帰宅後であった午前11時58分、この地方一帯は激しい地震に襲われ・・・・・明治以来20星霜、本校舎を中心にして南北両校舎、講堂、生徒控所、図書館、柔道場、銃器室、門衛、寄宿舎など・・・本校校舎は、校長室の一棟(12坪)、理科教室を含む南校舎一部半壊を残して、一瞬の中に倒壊したのであった。不幸中の幸いというか、大半の生徒は下校していたが、たまたま当日同刻、記念図書館二階広間では、数十名の生徒に対し、柳悦多氏の野球に関する講話が行われていた。かねて野球部強化を計画していた苅込豊氏、川又務氏、鈴木浩氏などの先輩の依頼によるものであった。柳氏はすばやく全員の生徒を階下に避難せしめたため、生徒に事故はなかったが、自身は川又務五段と向い合って二階の窓わくに馬乗りにまたがって、悠然としていたところ、余り激しい震動のため、川又氏は外へ、柳氏は内へ投げ出され、柳氏は倒壊家屋の下敷きとなって不帰の客となったのであった。氏は遠洋漁業に従事し、その基地として館山に在住の傍ら、大正4年から3年間、本校の柔道教師をもつとめ、柔道部の興隆にも尽くし野球部の強化にも援助を惜しまなかったのである。・・」(p196~197)

この「八十年史」の記念誌編集委員長には、柳悦清氏の名前があります。悦清(よしきよ)氏は悦多の子息で、安房高の国語の先生だったそうです。

ここでは、鶴見俊輔氏の文よりも、記述から見て「八十年史」のほうが正確だろうと、思えますが、いかがでしょう。
そうして見ると、地震について、ちょっと気になる箇所があります。

「すばやく全員の生徒を階下に避難せしめたため、生徒に事故はなかったが、自身は川又務五段と向い合って二階の窓わくに馬乗りにまたがって、悠然としていたところ、余り激しい震動のため、川又氏は外へ、柳氏は内へと投げ出され、柳氏は倒壊家屋の下敷きとなって不帰の客となったのであった。」

この箇所が、私に気になるのでした。
地震の最初の震動で生徒を避難させてから、二人は「二階の窓わくに馬乗りにまたがって」いたというのです。なぜか?

その疑問を解くカギがありました。
まずは、君塚文雄著「館山を中心とする地震災害について」(「房総災害史」千葉県郷土誌研究連絡協議会編)によると、
「明治時代に入ると、房総半島南部には大被害をもたらした大地震はあまり見られない。・・・・大正時代には、房総南部では11年(1922)4月26日の地震がやや大きいものであった。震源地は浦賀水道、規模はM6・9とされている。筆者も小学生の遠足の途次、那古町藤ノ木(館山市那古)通りでこの地震に遭遇し、驚いて逃げまどった記憶が生々しい。当時の北条町では煉瓦造りの煙突が折れ、県下全体で全壊家屋8戸、破損771戸の被害があったといわれる。続いて翌大正12年(1923)9月1日の関東大震災があった。」(p174)

君塚氏の文によれば、明治から大正にかけて地震らしい被害は、館山ではなかったけれども、大震災の一年前にM6・9の地震を経験していたのでした。

「八十年史」には関東大震災当時の、寺内頴校長の文が載っております。
そのはじめに、こうあるのでした。
「大正12年9月1日、正午に近き頃、激震俄(にわか)に起る。予当時校長室にありて、校舎増築の監督と会談中なりき。大正11年の激震より推して敢えて驚くに足らずとせり。然れども、動揺激甚にして校舎も倒れんばかりなりしより、出づるに如かずと監督を促し、予は廊下より西玄関に出て、その前にありし高野槇につかまる。地の動揺更に激甚を加へ、振り離されんばかりなり。・・・」
先に校舎被害には、校長室の一棟は無事であったとあります。ですが、図書館2階は倒壊しております。
この寺内校長の文にある「大正11年の激震により推して敢えて驚くの足らずとせり」という気持ちを、当事者のどなたもが、共有したおられたのではないか。
柳悦多氏や川又務氏も、おそらくそうした気持ちが働いていたのではないか、と思ってみるのです。そうすると、生死の分かれ目としての「2階の窓わくに馬乗りにまたがって」という記述が鮮やかに思い浮かんでくるのでした。
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