柄にもなく、お正月は松を飾りました。
年末、主なき家の庭にあった松を切りました。
鉢植えの松がそのままになっていて鉢が割れ、
そのまま根をはり大きくなりはじめてました。
切った松は家に持って帰り、前の鉄柱に結わえて、
下の切口がきになるのでプラスチックの鉢に入れ、
年末にいただいた枝ぶりのよい南天を下にかざり、
竹の葉もかざり、即興の門松がわりとなりました。
思いっきり切った松は、まだまだありましたから、
家の中では剣山にさし水をはって飾りとしました。
家の中の松は、まだそのままにしてあります。
はい。思い浮かんできたのは、生け花でした。
ということで、花が語りかける瞬間のような場面を引用することに。
河井道著「わたしのランターン」(恵泉女学園)
このはじめの方に、病身の父のことがでてきます。
「 ・・その後も彼はとうとう本当の健康体にならなくて
二十歳になるまでは半病人のようであった。
けれども、病身ということはまたよいこともあった。
主治医や、彼を毎日教えに来る先生が、いろいろな
物語や伝説を話してくれた。父は、日本の古典や和歌に
専念するゆとりを得たし、また茶道や活け花のけいこを
する時間ももてた。
また紙や絹や藁で手芸品をつくるのも楽しみであった。
けれどもわけても一番の大きい楽しみは、庭にあった。
花や苔、鳥やなく虫、また小石や庭石さえも、友とした。
このような趣味は、一見、女性的であるように見えるが、
神官の職は、風雅な教養を必要とするので、
実際上にふさわしいものであった。
後年ある時、わたしが野の花をびんに押しこんだのを見て、
父がわたしをたしなめたことがある。わたしは、
『 これは花瓶でもないし、花だって特別いい花ではないのです。
ただちょっと道端でつんできただけなのですもの 』
と、口ごたえすると、父は、
『 野の花でも、栽培した花でも、花は花、
安いものでも、高いものでも、花いけは花いけ 』
と言った。そして、
『 かためてぶち込んだら、あつくるしくて、
息づまりそうだろう。葉を茎からおとしなさい。
こちら側に花をいく分ひき上げて、茎を曲げてごらん。
ちょうど露がおいて、風がそよぐように見せるのですよ。
自然の姿に見えて、涼しい感じを与えなくては、いけない 』。
いまでも、わたしは野花が、安ものの器におしつめていけてあるのを見ると、
あの父の言葉を、初めて聞いた時のままに、ありありと思い出す。 」
( p41~42 )
はい。これはもう、花が語りはじめた瞬間のように私には思えます。
うん。ここは、もうひとつ引用を重ねることにします。
「 朝花の水をかえる。
花をトップリと桶の水の中につけて、花びんの水をかえて、
さて花を一本ずつ少しクキを切って挿す。
花はいきいきとして、また美しさを増す。こうして、
クキのさきをポツンと切る度に耳にひびいて来る声――
『 毎日、少しずつクキを切るんだとさ。
そうすると花がよく保つそうだよ。
そしてね、一分ぐらい、
花を水につけるんだとさ。
だから切る前に水につけておいて、
一本ずつさきを切って活けるんだね。 』
大変な発見をしたように、私に話した夫の声がよみがえる。 」
( p17 村岡花子エッセイ集「腹心の友たちへ」河出書房新社 )
はい。花を買うことは、まあありませんが、時には、
貰い物のお裾分けのように花を頂くことがあります。
そのままに、筒形の花瓶に投げ入れておくのですが、
この花を語るお喋りがきまって聞こえてきそうです。
いいですねえ~。
お洒落な締めですねえ~。
花を巡るお喋り、拝読です。
花は野に置け、という風ですね。
安物の、ふつーの花器に無造作に投げ入れておくことはよくしてしまいます。
そしてテーブルに~。
コメントありがとうございます。
村岡花子さんの文は、以前に読んだことがあり、
それ以来、枯れるまで花瓶に挿しっぱなしの花を、
思い立つと茎を切って水も入れかえて飾った時期が
ありました。はい。花瓶の萎れた花をみると、
自然に、花岡さんの文が思い浮かぶのでした。
つられて、今日のブログも花でいきます。