丸谷才一著「快楽としての読書 日本篇」が、
ちくま文庫の新刊として出たようです。
気になるけれど、丸谷さんの書評本は、
読まずにあるので、買わないことにします。
(まあ、こう自分で自分に言いきかせているわけです)
つぎに、本棚にある丸谷才一氏の書評本をとりだしてみる。
とりだしたのは、丸谷才一著「いろんな色のインクで」(マガジンハウス)。マガジンハウスで出している丸谷才一氏の書評本は、何となく買ってあります。最後にさりげなく書評索引・著者名索引・訳者名索引。そして初出一覧が付いております。
わきに新聞紙はさんである。忘れていたけれど、
この書評本への新聞書評でした。
毎日新聞2005年10月23日読書欄の
鹿島茂氏の書評です。
鹿島氏は、この一冊のけっこうをラーメンにたとえます。
各章ごとに、スープや麺やチャーシュー・煮卵・シナチクと比べながら、おもむろに味わいはじめるのです。
そして、鹿島氏は
「本書はなによりもまず、その編集の妙が光る本である。」と指摘しておりました。
それでは、鹿島さんがスープにたとえた
第一章「書評のレッスン」のインタビュー記事から、すこし引用
「書評っていうのは、面倒くさがり屋はダメですね。書き直すことがいやだといって、書きっぱなしにする人には向かない仕事です。・・場合によっては二、三回書き直すことも辞さないくらいの凝り性でないと書評書きに向かないんじゃないですかね。」(p26)
「書評というのは面白い形式ですね。新刊書を論ずるという形で、ふざけ散らした随筆を書くこともできるし、死んだ友だちの思い出話を書くこともできる。そんなふうに、自由自在な、いろんなものを入れることができる容器である以上、それを文芸評論の容器とすることも充分できる。」(p27)
「イギリスの批評は実際的なんですね。本という証拠物件があって、それについて、読者と批評家とが対話する。その会話の一つとして書評があるんでしょうね。」
「もう一つ、読み方についての注意というのが大事です。たとえばこの本は第一部はやめて第二部から読めとか、うんと長い序文がついているけれども、これはくだらないから読まないほうがいいとかね(笑)。これは非常に大事なことです。」(p27)
「ほかの人にもこの本をすすめたい、読ませたいという情熱があって、しかも技術がある場合、いい書評が成立するんですよ。」
そして、ここは鹿島さんも引用していた箇所なんですが、
私も引用します。
「書評というのは、ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙みたいなものです。・・・ところが書評というものはたんに文章だけで友好関係、つまり信頼感を確立しなきゃならない。それは大変なことなんですよ。その親しくて信頼できる関係、それをただ文章だけでつくる能力があるのが書評の専門家です。その書評家の文章を初めて読むのであっても、おや、この人はいい文章を書く、考え方がしっかりしている、しゃれたことをいう、こういう人のすすめる本なら一つ読んでみようか、という気にさせる、それがほんものの書評家なんですね。」
う~ん。私は第一章のスープだけで満腹(笑)。
ラーメンはすぐに食べないと冷めてのびちゃいますが、
本は、途中で本棚にしまっておける(笑)。
とここまで書いて、自分に駄目押し。
ちくま文庫の新刊は買わないことにいたします。
ちくま文庫の新刊として出たようです。
気になるけれど、丸谷さんの書評本は、
読まずにあるので、買わないことにします。
(まあ、こう自分で自分に言いきかせているわけです)
つぎに、本棚にある丸谷才一氏の書評本をとりだしてみる。
とりだしたのは、丸谷才一著「いろんな色のインクで」(マガジンハウス)。マガジンハウスで出している丸谷才一氏の書評本は、何となく買ってあります。最後にさりげなく書評索引・著者名索引・訳者名索引。そして初出一覧が付いております。
わきに新聞紙はさんである。忘れていたけれど、
この書評本への新聞書評でした。
毎日新聞2005年10月23日読書欄の
鹿島茂氏の書評です。
鹿島氏は、この一冊のけっこうをラーメンにたとえます。
各章ごとに、スープや麺やチャーシュー・煮卵・シナチクと比べながら、おもむろに味わいはじめるのです。
そして、鹿島氏は
「本書はなによりもまず、その編集の妙が光る本である。」と指摘しておりました。
それでは、鹿島さんがスープにたとえた
第一章「書評のレッスン」のインタビュー記事から、すこし引用
「書評っていうのは、面倒くさがり屋はダメですね。書き直すことがいやだといって、書きっぱなしにする人には向かない仕事です。・・場合によっては二、三回書き直すことも辞さないくらいの凝り性でないと書評書きに向かないんじゃないですかね。」(p26)
「書評というのは面白い形式ですね。新刊書を論ずるという形で、ふざけ散らした随筆を書くこともできるし、死んだ友だちの思い出話を書くこともできる。そんなふうに、自由自在な、いろんなものを入れることができる容器である以上、それを文芸評論の容器とすることも充分できる。」(p27)
「イギリスの批評は実際的なんですね。本という証拠物件があって、それについて、読者と批評家とが対話する。その会話の一つとして書評があるんでしょうね。」
「もう一つ、読み方についての注意というのが大事です。たとえばこの本は第一部はやめて第二部から読めとか、うんと長い序文がついているけれども、これはくだらないから読まないほうがいいとかね(笑)。これは非常に大事なことです。」(p27)
「ほかの人にもこの本をすすめたい、読ませたいという情熱があって、しかも技術がある場合、いい書評が成立するんですよ。」
そして、ここは鹿島さんも引用していた箇所なんですが、
私も引用します。
「書評というのは、ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙みたいなものです。・・・ところが書評というものはたんに文章だけで友好関係、つまり信頼感を確立しなきゃならない。それは大変なことなんですよ。その親しくて信頼できる関係、それをただ文章だけでつくる能力があるのが書評の専門家です。その書評家の文章を初めて読むのであっても、おや、この人はいい文章を書く、考え方がしっかりしている、しゃれたことをいう、こういう人のすすめる本なら一つ読んでみようか、という気にさせる、それがほんものの書評家なんですね。」
う~ん。私は第一章のスープだけで満腹(笑)。
ラーメンはすぐに食べないと冷めてのびちゃいますが、
本は、途中で本棚にしまっておける(笑)。
とここまで書いて、自分に駄目押し。
ちくま文庫の新刊は買わないことにいたします。
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